眠れる憂悶(死帳/L)




恋人と称するには深く、妻と称するには 僅かに浅い気がした。けれど確かに、エルは彼女と甘いものだけを鍾愛していた。

「コーヒーを淹れましたよ、エル・ローライト」
「…ありがとうございます。ビアンカ・バリー」

エルは、ビアンカ・バリーの家の はちみつ色のソファに座り、彼女の淹れた熱くて芳ばしいコーヒーを飲むことが好きだった。

「ビアンカ・バリー。」
「はい。」

「ああ、角砂糖が出ていませんでしたね。」
「それもありますが、違います」
「なんですか?」

ビアンカはガラス張りの戸棚に収められていた、ペールオレンジの小びんに手を伸ばしながらエルに微笑する。

「あなたに名前を呼ばれることは、嬉しいことです」
「……はあ、」
「しかし、いちいちフルネームもどうかと思います」

「あなたはそう言いますけどね、エル・ローライト。」

かちゃりと小びんのふたが除かれた途端に、エルの骨張った長い指が伸びてきて、角砂糖を運び始めた。


「―――何か言いたそうですね、ビアンカ・バリー。」
「ああ、ほら。」

「あなたもでしょう」

 
スプーンが、エルのカップの底を突いて泳ぎ回ると、ざりざりと 砂地を踏みしめるかのような音がした。

「あなたも私のこと、フルネームで呼んでる」

それと、あなたは私のコーヒーが嫌なの?とビアンカの呆れ笑いに、エルは隈のこびりついた目で彼女を見つめ、いいえ 寧ろ好きです と答えた。

ビアンカ・バリーの家の振り子時計が、まだ早い零時の鐘を鳴らす。
誘発されたように、ビアンカは立ち上がってキッチンへと走った。

「あの古時計、鳴るのが早いですね。」
「ええ、早めに行動が出来ていいでしょう?」

ほんのりかすかに暖かいクッキーを一人占めるように、エルは頻繁にクッキーの盛られた皿に手を伸ばした。

にこりと微笑み、ビアンカは敷いてあるカーペットに座った。

「エル・ローライト。秘密の話をしましょう。」
「はあ。秘密、ですか」


「私ね、一度も人を殺したことがないの。」


不思議そうなエルの瞳に、漆黒の不気味なノートが映り込んだ。DEATH NOTE――カーペットの下から現れたそれには、拙い字が並ぶ。

「それは、デスノートですね」
「そう、俗に言うキラだったのよ私。」

やはりエルはいつも通り、黒い目を揺らすことなく冷静でいた。

「殺人をしたことがない、つまりそれを使ったことがない、と?」
「ええ、なのに死神の目まで持っているのよ、私ったら。」

エルは、ビアンカ・バリーの意味不明な行動に目が眩んだ。彼女はただノートを抱え、おかしいでしょう と疲れたように笑っていた。



「馬鹿」
「、ですねえ」

顔を顰めて叱ってみても、効果は砂漠の雫のように皆無である。
ビアンカ・バリーの外れたネジの本数を数えるうち、エルは溜息を吐いていた。

「命はひとつしか無いと、身に沁みているはずだ。馬鹿」

「お願いですから、その馬鹿って口癖にしないで下さいよ」
「さあ、どうだか」
「……もう!」

「言っておきますけど、契約はあなたと出逢う前にしたもの――」



「ビアンカ。」



突然だった。
エルの声はそれきりしなくなった。

彼がよくしたように、ビアンカは眠るエルをしばらくの間、見つめた。


「急に名前を呼んだりして。驚きました」


座り続ける体をはちみつ色のソファに倒してやると、寝室から運んできた白いタオルケットをエルにかけてやった。

目下の隈ごと覆う黒髪を払い、そっと唇に口付ける。ほんのりかすかに暖かい手のひらを、きつく握りしめた。


「エル・ローライト。まだ言っていないことがあるのよ。」


ビアンカは静謐な微笑を浮かべると、握った手を離した。ふと、デスノートを捲る。死神が書いた以外に、字は無かった。


「あのね、」


エルの肉体と重なるように、タオルケットにもぐりこんだ。


痩せていてがっしりとは言い難い彼の胸に顔をうずめると、彼のにおいと、クッキーと 甘ったるいコーヒーのかおりがした。


「・・・ああ、もう いい―――――」


指を絡めたまま、残った熱を分け合った。もうぬるいとも言えなかったが、逆にそれが心地よかった。





「おやすみなさい、」


「エル」





ろくに回らない舌を、精一杯に動かした。

何と言ったのか、自分でも分からなかった。


それきり、ビアンカの声も聞こえなくなった。無人となった家の別の時計の針は、二本重なって12を指していた。




恋人と言うには深く、夫婦と言うには僅かに浅かった。

けれど確かに、白いタオルに包まれるふたりは しあわせだった。








 


あきゅろす。
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