そいつは決まって帰り道、俺の前に現れた。すっかりやせ細った体に 雨水や埃で汚した鈍色の毛を伏せて、俺が歩きながら食っていたパンを分けろとばかりにミアオと泣く。こいつの紅碧の目の押しに負けて、今日もパンをちぎった。
「うまいか、べにみどり。俺のパンはよ」
目の色が紅碧だから、べにみどり。
俺がこいつに勝手に付けた名だ。
小さなのど元を撫でてやると、べにみどりは目を細める。指を動かすたびに、首輪についた鈴がちりんちりんと鳴った。
「お前の飼い主、まだ見っかんねーのか?」
「ミャア」
「…答えは期待してねえんだけどな」
見たところ、べにみどりが捨てられたという形跡は無い。つまりこいつは勝手に外に出て、勝手に迷っただけ。今頃飼い主はあちこち探し回りながら途方にくれているはずだ。
パンを転がして弄ぶべにみどりは至って呑気だった。飼い主には悪いが、この猫は俺の楽しみになりつつあった。
ミアオ、べにみどりが鳴く。きっとこれは、また明日と別れを告げている。いつもそうやってどこかへ去っていった。
「ベニー!」
だが、今日だけは違った。
「やっと見つけた、心配したよベニー…」
俺のべにみどりは「ベニー」だった。本当の飼い主が現れて、本当の名前で呼ぶ。密かに、来なければいいと思っていた瞬間だった。
聞いたこともない、べにみどりの甘えた声。飼い主に再会するのはいいことなのに、気が晴れない。俺はどっちの顔も見ないまま踵を返した。
「あなたが、ベニーを助けてくれていたんですか?」
ふいに女が俺に興味を向け、声をかけてきた。俺は足を止め、足下に広がっていた水たまりで相手を見た。
「ああ、まあな。」
「ありがとうございます!!」
「まさかこの子が生きていてくれるなんて…」
急に女の声がくぐもる。顔が手で覆われていて見えない。…泣いているのか。
「おっ、おい泣くなよ!」
ここでようやく、俺は飼い主の女と向き合った。女の腕に抱かれたべにみどりは、時々涙を頭に受けた。ぽつん、と涙が落ちるたびに ぷるぷると首を振る。
「俺が泣かしたみてーじゃねーか…」
「気にしないでください」
「うれしいんです、少し泣かせてください。」
よく分からなかった。ついでにどうすればいいのかも分からなかったから、街で貰った硬いティッシュで涙を吸ってやった。
「………やさしい人」
いきなり顔を上げた女に、何故かどっきりした。涙でびしゃびしゃの頬には短い黒髪がへばりついている。
そして、泣きながら笑う目の色は―――紅碧。
「道理でこの子があなたに懐くわけですね。」
「……分かんのか」
「私とこの子は一緒なんです。」
このどきどきはきっと べにみどりと同じ色合いへの驚きだ。だって、出会って数分で惚れるとか、ありなのか?ただ泣いた後に笑った目がきれいだった。たったそれだけで。
ね。女が笑いかけると、べにみどりはミャアと鳴いた。
(どういうイミの「ミャア」だ、ばか。)
「そりゃ光栄だな。」
「疑ってます?嘘じゃありませんからね」
「そ、そうかよ…」
…ほんとうに俺は、好きになってしまったのかも。そう思うと余計にそっけない態度が増えた。それでも女は 赤のちりばめられた頬を笑わせている。
「うわっ!」
組んでいた腕に、べにみどりが飛び移ってきた。べにみどりに続いて、女が抱きついてくる。水鏡のようだった水たまりが割れて、飛沫が飛んだ。
「私、あなたに一目惚れしちゃいました」
「な……!」
水たまりの丸い輪郭が、とげとげになって広がった。俺の尻は救えないほどぐしょぐしょで、女の制服のスカートも同じように濡れていた。
「なんなんだお前は!」
「すいません 私みちるです!!」
無事なのは、俺の頭の上に乗ったべにみどりだけ。
「…みちる?」
「しょーがねえ、覚えといてやる。」
「本当ですか!?」
「ブラックリスト行きだ」
「そんなのはなしで!」
「冗談だ、ばーか。」
みちるはすっかり泣き止んで笑っていた。俺もいつの間にか、つられて笑っていた。まだ、水たまりの中に座り込んだまま。
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