春の雪(XANXUS)




もうすぐ温かくなる。

もうすぐ無くなってしまうものがある。



「俺の名はXANXUSだ」


彼女は若く死ぬことが決まっていた。愛した景色も人もすべて忘れて。
過去彼女が涙したドラマや映画の主人公に、眉をひそめた医者が告げたものと一文字も違わぬ綴りによって、今も着実に望まぬエピローグをたどっている。


「…はい」

「お前の名前はみちる、お前は俺の女だ」


医者を前にしたその瞬間はまるで、ドラマのワンシーンを演じているようだった。悲しい恋物語を特に好んだ彼女の影響でよく知っていた病名を、老いた医者は静かに告げた。


「――真面目な顔して何を言うのかと思ったら。」


肉体的な死よりも早く、精神的な死が訪れる。そんなフレーズが足音も高らかに頭の中を我が物顔で歩き回っている。
自らの演題を知ってなお彼女は変わらず微笑み続けて見せたが、ときどき抜け落ちていく記憶への恐怖も忘れてはいなかった。


「そんな基本的なこと、まだまだ忘れませんよ」
「当たり前だ」


ねえXANXUS…最近何か思い出そうとすると、春風が邪魔するみたいに記憶をさらってしまうの―― そう聞いた日から、XANXUSは放っておくことの多かった妻に寄り添うようになった。

(…追い出されて、たまるかよ)


「XANXUSのことが頭の中から無くなるなんてありえないわ」
「……だが、そういうもんなんだろ」


このやりとりももう何度目になるだろう。こうして日々、彼女の中の自分という記憶を書き足していくのだ。


「もしあなたのことを忘れるとしたら、それはきっとわたしが……」


しおれた花のような声音を止めたのはXANXUSの容赦ない腕の強さだった。
その確かな腕の中で、みちるは泣いた。雪が溶け出してから、初めての涙だった。


「自分のことは忘れていいの。ただ、あなたのことだけは、最後まで覚えていたい」


それは今まで傍観してきた戯曲のヒロイン達と、同じ類のものかもしれない。


「忘れさせやしねえよ。お前のことも、」
「多くを望めば何事も叶わなくなってしまうと思うのよ」

「だから私は私より、あなたを望むの」


わすれな草の花と同じ目の色をした主人公と、主人公が己より愛した男。彼女の戯曲の登場人物も最早残すところあと二人。
他の登場人物達は、疾うにどこかへいなくなってしまった。確かに今年の冬まではいたはずなのに。


「何でそう思う?」


水をまとって透き通る、ガラス玉のような目。春になれば根雪は水となり、水は空気に混じって姿をなくす。彼女は自分がそうなるのを恐れていた。


「だって二匹のうさぎを追う人は」
「うるせえ、うさぎなんぞ知るか。お前はただすべてを望んでいろ」


XANXUSの大きな手のひらが震える背を優しくさする。みちるは少し黙ってまた泣いた。


「…XANXUSのこともわたしのことも、覚えていたい。」

「ああ。」
「最期の瞬間まで愛し続けてくれる?」


たとえ命の灯火が消え死が二人を引き裂こうと、記憶の雪は積もったままだ。
そう信じれば、春はもう恐くなかった。


「誰にそんなつまらねえこと言ってやがんだ」
「ふふ、XANXUSです」

「わたしの夫で、一番大切なひと。」



春の雪
(また明日と言って、二人は目を閉じた)



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