「すばる。」
「お父さん!おかえりなさい」
すばるに、家族ができた。
すばるが指輪に「姿を見せたい。触れたい。孤独は嫌。」そう願えば誰にでもすばるが見えたし、触れもした。
「しかし消えねえな、その首の傷よ…」
「痛くないから大丈夫だよ」
「そうかそうか。」
「すばるはあそこの飲んだくれ共より強い子だ!」
「オーイ!親ばかもいい加減にしろ!」
すばるが知らないことはたくさんある。
知っていたのは、自分の体が透明なこと、指輪の使い方、自分の名前、父がいること、父に愛されていること。毎日夜になると頭に直接語りかけてくる「ムクロ」という名前。それくらいだった。
「すばる、部下たちが何と言おうと次はお前に継がせてやるからな。」
父がいる。愛してくれている。自分の父親は、この人なのだ。すばるはそう信じて疑わなかった。
その夜は大変冷えた。
笑い声とこぼれた酒の染み付いた絨毯を、鉄の臭いのする温い褐色が染め替えていた。すばるの脳裏に、非常に曖昧な画が浮かぶ。
「おと、さん………?」
すばるは体中にこびりついた血と血の臭いに吐き気を催した。血の海の片隅に佇んで、がたがたと震える体はまるで自分のものではないように感じる。
手から滑り落ちて、がらんと音を立てる凶器。赤を被りながら酷く鋭利な銀。何か、槍の先のような………
灯火が消えようとしていた。
堅くなった埃臭いベッドの上でうずくまり、すばるは死ぬことばかり考えていた。指輪が叶えてくれる願いは、自分の姿を他者に示すことだけ。父やその仲間達…幸せだった日々を返してはくれない。
(何なの……?もう、嫌だよ…)
涙は昨日で出なくなった。悲しみも何もかも、何が何だか分からなくなっている。すばるはじっと、水か死を夢見ていた。
「おい。」
「そこにいるかわかんねーけど、死ぬんじゃねー。」
「犬、脅しちゃ、だめだ。」
顔を上げる力くらいなら、まだなんとかあった。
そこにいたのが誰かなのはまったく知らない。すばるの記憶にはいない人。
けれど、二人ともすばるを知っている。そしてすばるの心の奥底のどこかに埋もれている記憶――懐かしさを感じさせた。
「すばる、指輪に願いなさい。」
二人の少年の後ろから出てきた少年はおもむろに、見えも触れできないはずのすばるの手を取った。びくん、と心臓が脈打つ。血と空の瞳が、強い光を湛えてすばるをまっすぐに見ていた。
「あの、」
「何ですか?あまり時間が無いので質問は一つにしてくださいね。――先に言っておきますが、僕は君より君のことを知っています。体のことも指輪のことも。」
「どうして透明なときの私を見たり触ったり――。否、あなたの名前は?」
「僕はムクロと言います。それからあの金髪がケン、眼鏡がチクサ。僕達は君の味方だ。そんなに警戒しなくていい。」
「腹も空いているでしょう、さあ、食べるといい。」
「りんごとパン。……久しぶりに見た」
「それ俺が盗ってきたんらぜ!」
「…二人で、だろ」
「……そーともゆうな」
頭の内に響く骸の声を、すばるは知っていた。毎晩どこからか聞こえてきた声によく似ているからだ。むしろそのものかもしれない。確かその正体不明の声の主も、「ムクロ」だった。すばるはパンの千切れる音の合間に、色々なことを考えていく。
「ムクロくんたちは、どうしてこんなところへ?」
「君を迎えに来たんです。」
「俺達はマフィアのボスに引き取られた君の行方を探り、ようやく見つけたんだ。」
千種という、眼鏡をかけた少年の言うことの意味が分からなかった。すばるに引き取られたとかそういう記憶は微塵もない。少し前まで、父や仲間達に囲まれ愛され幸せに暮らしていたから。しかし、「それはおかしい」とは言い返せなかった。言えば何かが壊れる。根拠もなく、しかし強くそう感じていたからだった。
「骸さま、そろそろ。」
「…おっと、長居してしまいました。行きますよ。犬、千種。それと、すばる。君も。」
「骸さん、…連れてくんれすか?」
「何か。」
「何にもないれす」
犬と千種が、体が弱り一人では立てないすばるをベッドから降ろしてやる。そして骸が受け止めて、軽々と横抱きにする。
すばるは骸に抱かれ、ひび割れたガラスを胸に抱いたまま、血塗れた館を後にした。
(……さようなら)
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