2010 B.D.





もはや感じ取れなくなっている部屋の匂いを肺が一杯になるまで吸い込んだ。そして、その空気を一気に臍のあたりに向けて吐く。

深呼吸で封が解かれ、机の上の悲惨な散らかり具合に気が付いた。これまで己が積み重ねていた机の上の変化を、ディーノはちっとも自覚していない。
それもこれも、ずっと集中して仕事をしていた彼には仕方のないことだった。


タイムスリップでもしたかのような戸惑いを奥底に秘めつつ、彼は落ち着いて手元にあったマグカップを手にした。

マグカップには熱々のコーンスープが注がれていて、またはっとした。仕事を始めてから随分と時間が経っているはずだが、どうしてこのコーンスープは温かいのだろうか。そもそも自分はマグカップなんて持ち込んでいただろうかと、ディーノは不思議になる。


「…ボス、ボス。」


机の上に一枚だけあった紙を手に取り、上の空のような気の抜けた返事をする。
紙は詳細に書き込みのなされた任務の報告書で、今まさにひたきが提出した物だった。




「ちょっと!」

「ん」

「何無我夢中に仕事なんてやってるんですか!」

「? いいことだろ?」


ディーノはやるべき仕事をこなしていた。その仕事にはミスもない。普通なら責められるなんてまるで考えられない、優秀な状況だ。きょとんとする彼のどこにも非の打ち所は無い。
しかし、彼女が言うにはそれがいけないことらしかった。ひたきはコーンスープの匂いが微かにする部屋の空気を少し吸い込んで、それをため息にして吐いた。


「今日くらい仕事を忘れてゆっくりしていただきたいのですが。」


私が真ん前に立って待っていたことも、机の上に物を置いたことも、さては何も知らないでしょう。と、ひたきは呆れ顔である。
どれもたった一瞬前のことですよ。と彼女は言う。彼女は左手に、ディーノが何となく持っている物と同じマグカップを持っていた。


「待ってた?声掛ければよかっただろ」

「掛けましたよ、何遍も何遍も。」


ディーノは集中すると、集中しているもの以外に極端に鈍くなる。今こうして静かに誘導されて、ようやく「ああ、そういえば、」と思い返したのだった。
ひたきはディーノが読んでいた報告書を取り上げて、(あ、アントンが抜けてた)と名前を付け足してから一口コーヒーを口に含んだ。


「今日が何の日かご存知ですか?」

「うん?今日だろ?今日今日…」


そう言ってひたきが胸ポケットから何かを取り出した。彼女の右手が掲げるのは、ちょうど2枚ある映画のチケットだった。


「デート、しませんか?」


パン屋のバルバラおばさんの息子のカルロが彼女にふられたとかで、偶然パンを買いに行ったらくれたんですよねー!と、話していることは実際切ないはずなのに、眩い笑顔のひたきである。


「これから?」
「はい。」

「ふ……、ふたり、で?」

「もちろん!」


ディーノが恋する乙女よろしく頬をほんのり赤く染めたのを見て、ひたきも満足げに微笑んだ。
さっき掴んだマグカップをまだ手放せないままでいるディーノ。ひたきはそのマグカップを取って自分のマグカップの隣に並べた。


「ほらほら、そうと決まれば早く行きますよ!」


ひたきはマグカップが離れてぽかんとしているディーノの手を握った。
それでも心の準備が出来ずにいる彼は、まだ見ていない報告書があるだとか、まだコーンスープを飲みきっていないだとか、まず着替えてから行こうぜ、などとやたら饒舌に喋った。


「上映までまだ時間はいっぱいあるだろ、そんなに焦んなよ」

「まだ、まだ、って。
そんなに仕事していたいんですか?」

「んなことねえけどよ…」


ひたきはディーノの背後に回って椅子を引き、包み込むように脇の下から腕を通して上体を持ち上げるなど、てきぱき動いた。
「ダリオ!人数募ってパーティーの買い出しに行ってー!」なんて叫びながらも、すっかり緊張して動かないディーノを椅子から降ろして引きずるのに必死だった。


「年に一度のボスの誕生日ですもの。きっと楽しいデートにしてみせますよ、覚悟しておいてください」

「ひたき……」


今日が自分の誕生日だと忘れていたことを言い出せないまま、ディーノはひたきに引きずられていた。

あともう少し、もう少しで決心できる。そうしたら、彼は自分で立ち上がるつもりだ。


そして、どうか本当にふたりきりの時間をくださいと、神さまにねだるのだ。




仕事の山よりも、
素敵な君に夢中でいたい




あきゅろす。
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