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狭心症
 

 雨の日が続いていた。
 どす黒くなった指と腕が、どす黒くなりかけている顔を覆い隠し、苦しいだろう呼吸の合間にほんの少し微笑む。
 長くは続けられない仕事。
 この世界の穢れを、その一身に受け入れる仕事。
 そうしてそれを、見守るだけの仕事。
 この何年かで、もう何度目になるのかわからない別れが目の前にあった。
「…管理人さん」
 もうあと一日か二日で、その命は運良く生き長らえた人類の為に消える。そうして、日々は至る所で繰り返されていく。
「…もう、きっと明日には、喋れなくなってるから、いま、言いますね」
 穏やかな眠りに落ちる前のような、ぼんやりした声だった。
「はい。なんでしょう」
 動かない舌を、唇を、喉を、止まろうとする心臓を、肺を、動かして。
 命の最後の光を、いつもそこに見る。
「いままで、ありがとうございます。…お世話に、なりました」
 世界のどこかでおびただしい血が流れようとする時。この世界が終わってしまう引き金になるような事が起きてしまいそうな時。
 たったひとつの命と、何万何億の命を引き換えにする。
 本当に最悪の事態を避けるために。
「こちらこそ、お世話になりました」
 隠したままだった顔を少し覗かせて、ゆっくりと細めた目でまばたきを一度。
「……お元気で」
「はい。ありがとうございます」


 部屋を出て腕時計を見ると、次の予定の時間だった。
 セキュリティーをいくつも抜けて入ってきた道を、同じように戻る。その途中、立ち止まると靴音が消えて、急に自分の鼓動が全身を支配した。
 幾人もの見知らぬ誰かの為に消える命は尊いだろうか。
 その幾人もの見知らぬ誰かの命は尊いだろうか。
 秩序の中で裁かれて消える命は。
 罪人の命は。
 赤子の命は。
 老人の、若者の、命は。
 人間だから尊いのだろうか。
 ありとあらゆる命が尊いと言うのなら、その姿形で忌み嫌い、好ましいと思い、消えればいいと、消えなければいいと。
 なぜ願い、思うのか。
《――どうしました?》
 ドアの前で長く立ちすくみすぎたせいか、監視カメラで見ていたセキュリティースタッフが、放送用のスピーカーからそう言った。
 カメラの方へ、なんでもない、と手を上げて、ドアをくぐる。
 そう、なんでもない。
 繰り返す。
 なんでもない。
 繰り返す。
 なんでもない。







「はじめまして」
「はじめまして。よろしくお願いします」








 何度目かもわからない出会い。
 何度目かもわからない別れ。
 明日を呪いながら、それでも終わりを恐れている。




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