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白い影
 

 決して触れてはならない人外の存在を、高野先生は、それは熱心に私達学生に教えて下さった。
 高野先生は口を閉じていらっしゃれば、素敵なイギリス紳士のような方だったが、ひとたび講義が始まれば、幽霊やら妖怪やら。そんな夢か霞のようなお話を激しく熱っぽい口調と、少年のようなきらきらした瞳で、一言も言い逃さぬ勢いで語られる。そんな、素敵な方だった。
 女性がよく言う「男はいつまでたっても子供のまま」というのを、私はああ、このことか、とやっと合点がいった。高野先生を見ていれば良くわかることだった。
 高野先生の部屋は、ご本人以外にはたった数人の学生だけが入る事を許される、特別な部屋だった。
 というのは実は建前で、本当のところ、高野先生の部屋は蔵書ではちきれんばかりの本棚やうず高く積み上げられた研究資料、メモ書きで足の踏み場もなく、それを崩す事無く巧みに部屋を歩き回れる者だけが、部屋に入る事ができたのだった。
 高野先生の講義を受けていた学生達の間では、その「高野部屋攻略」が盛んに行われていたが、大抵の者は扉を開けたところで降参した。
 扉を開けるとすぐ脇に、圧し掛かってくるような書棚がある。高野先生の普段の様子からは考えられない程乱雑に、殆ど手当たり次第に詰め込まれた書籍の類がぐらぐらと揺れ、そのまま自分に襲い掛かってくるような気分になるのだ。
 次いで、そこで立ち止まったままでいると、かすかに明るく見える奥の方から高野先生の良いお声が
「誰だね。どうした」
 と、尋ねてくる。そこで大抵の学生は、畏れ多くもこの「聖域」に踏み込もうとしていた己を恥じ、悔やむ事になるのだった。
 そして、お邪魔致しました、と言うのもそこそこに逃げ帰ってくる者は、半ば感心し、半ば呆れた様子で、
「よくまあ、あんなところを歩いて中に入れるものだ」
 とか、
「やっぱり変なじいさんだ」
 などと言うのだった。
 かく言う私は、「聖域」に踏み込める数少ない内の一人だった。
 迫りくる書棚を退け、嶮しい束紙を乗り越え、揺れ動く魑魅魍魎の資料の山を押さえ込む。そうやって、高野先生の許へたどり着くと、まるで古事記のスサノオか、ギリシア神話のヘラクレスか、という気分になるから面白い。
 高野先生は、そこだけ明るい窓辺の机で、古い本を少し目を眇めて読んでいらっしゃる事が多い。
「先生」
 と、声をかけると本から顔を上げられて、
「どうかしたかね」
 と優しい声で言って下さる。その優しい声に私は嬉しくなって、たったそれだけの為によく高野先生の部屋を訪ねては、たあいのない話をさせて頂いていた。
「高野先生は、中国に行った事がおありだと伺いました」
「上海に少しね。あすこはなかなか面白い場所だった」
「勉強にですか?」
 高野先生は、白くなっているものの立派な眉の下の、黒々とした瞳をきらっと輝かせ、まだ開いていた本を静かに閉じた。
「饕餮を探しに、」
 途端に、折からの風に窓硝子ががたんと鳴った。びくりと体を強張らせた私を、先生は奥に暗い光を秘めた目でひたっと見つめ、それからふっとお笑いになった。
「と言ったら、信じるかね」
 高野先生がお話になる不思議なもの達の存在を、私は正直、あまり信じていなかった。けれど、その時の高野先生には、それらを信じさせる何かがあった。いつもとまったく違う、闇を秘めた声や、奥が見えない暗い眼のせいだったのかもしれない。
 そして私が頷きかけたその時、高野先生は眼を細めていつものように優しい声で
「なに、実は上海蟹が目当てだったんだがね」
 と、おどけておっしゃったので、私は知らずの内に詰めていた息をはっと吐き出した。
 こんな風に、高野先生は面白い方で、すらりと背の高い西洋人風の容姿も相まって、誰彼となく好かれていた。
「彼らの中には目には決して見えぬものがいる。霧に紛れるものや擬態するものは多いが――」
 と、ここで高野先生は黒板にぐるりと大きな楕円をお描きになった。
「諸君は、考えた事があるだろうか。
この円の、外に居るとも内に居るともつかない、しかしそこにあるものだ。
目に見えるものしか信じない者には、到底信じられない存在だ。だが私は生来、目に見えぬものを、…目に見えぬものこそ、信じたいという考えでね。
――異国の友人に、聞いた話なのだが、」
 高野先生は、まるで怪談話でもするかのように、声をぐっと潜めた。
「それは、ぼんやりと白い。
ただ、それは、現実の視界では決して見る事はできない。それを見るにはそれ以外のものを――」
 つきつきと、急にこめかみが痛み出したのを、私はいつもの頭痛だと思った。窓の外ではいまにも雨を降らせそうな暗い色をした分厚い雲が広がっている。そのせいだと。
「見てはならない」
 高野先生の声は、低うく響いた。
 ぞくり、と肩のあたりに冷たい感触が圧し掛かった気がした。皆そうだったのだろう。服の上から腕をさすり、首の後ろ辺りを無意識の仕草で撫でているのが殆どだった。
 頭痛は変わらず続いていた。目の奥がずしりと重い。
「それを見てしまったら、それ以外のものは見えなくなる。
そして、それは段々形をはっきりとさせてゆき、最後には顔まで付く。
人間のように」
 ざあっ…とすさまじい音を立てて、雨が降り出した。しかし、誰も窓の外を見ようとはしなかった。まさに、全員が全員、高野先生の目に、顔に、声に、引きつけられていたのだ。
 その時ちょうど鳴った鐘の音を、皆がありがたいと思った事は、まず間違いない。
「では、今日はここまでにしよう」
 高野先生がそう仰ったのを、私は心底安心した気持ちで聞いた。
 その日の雨の到来は、夏を告げていた。春の終わりに降る雨は清々しい草木の香りがするものだ。そうして夏が近づくのを感じ取ると気も浮き立つのか、私の学友達は素足のまま水溜りに足を踏み入れてはしゃぎ、物静かな図書の先生に、静かにしないか、と大層怒られていた。
 ほんの二、三日雨が降り、青々とした木々の葉が目に眩しい初夏がやってきた。



 その夕。
 思ったより深く眠っていた私は、午睡から目を覚まして部屋の薄暗さにどきりとした。誰と約束がある訳でもなかったが、夏の日が落ちて宵闇が漂いだす頃に目覚めると、何故か物凄く時間を無駄にしてしまったような気になる。
 ぬるい水で顔を洗い、ぐっと伸びをすると背中がきしきしと鳴った。




 それは最初、ぼんやりとした霞かなにかのようだった。それが黒い土の上からゆらゆらと立ち上っている。あたりの木がざわざわと、風もないのに揺れ動いたような気がして、私は落ち着きなくその辺りを見回した。
 それは幽鬼の類には到底見えず、かと言って決して人というのでもないように思えた。蒸し暑い夜だったが、どこからかよい薫りが漂っている。
 それはうすぼんやりとした、食べ頃の水蜜桃の薫りのような、かすかに甘いよい匂いだった。
 桃の類などこの季節に、ましてやこの辺りでなど、天変地異が起こったとしても生るはずがない。けれど、ほのかに甘く優しいその香は、体中に張り付くように重い夏の空気の中に、確かに漂っているのだった。
 私はこれを狐の仕業ではないかと思った。けれどそれは何をしてくるでもなくただ黒い土から立ち上り、ゆらゆらと、微風にでも千切れて飛んでしまいそうな様子でいる。
 わたしはふいに恐ろしくなり、その路地奥の公園から慌てて離れ、表の賑やかな通りへ走って出た。
 表の通りはもう夏祭りも始まろうとしていて、ほのかに光る堤燈の下で沢山の人が行き交っているのが、急に私を現実的な夏の夜に引き戻した。
 そしてふっと後ろを振り返ると、遠くの方に街灯が小さく寂しく光っているだけで、その先に小さな公園があることももうわからないのだった。
「やあ、どうした。幽霊でも見たような顔をして」
 唐突に声を掛けて私の肩を叩いた学友に、私は飛び上がらんばかりに驚いて振り返る。
 そんな私の様子に驚いて、
「どうしたどうした。なにかあったのか?」
 そう言う学友に、いや、と答えて、私はその路地から逃げるように
「なんでもないのだ…なんでもない」
 行こう、と友人の腕を引いた。




 涼を求めて行った公園で私は高野先生とばったり出会った。
「――高野先生」
「おや」
 先生は涼しげな半袖の白い綿シャツ。濃赤の小さなリボンが付いた白っぽいストローハットをかぶり、焦茶のサスペンダーで白い麻のズボンを吊った、モダンな格好をなさっていた。
 私はといえば、適当に放ってあった着物を適当に羽織ってきただけで、素敵な格好をなさった高野先生と並んで歩くのが恥ずかしく思われて少しばかり縮こまる。
 公園の噴水の辺りでは、とっくに夏休みに入っている子供達が歓声を上げて水遊びをしていた。逃げ水が遠くのほうでゆらゆらと揺れている。
 私と高野先生は白く乾いた土と砂利の上を並んで歩きながら、大きな池を回って反対側にある喫茶店を目指していた。
「けれど最近は、夜には少し涼しくなるように思います」
「ああ、そうだね。最近は余り蒸さないね」
 ざぁ…と、木の葉が、風に涼しい音を立てた。
 洋館を模して建てられた、真っ白な洒落た喫茶店は涼しい店内は混んでいたが、丁度木陰になったテラスの席が空いていた。
 私と高野先生はそれぞれ冷たいものを注文し、なんとはなしに黙りあったまま、きらきら光る池のおもてを見つめていた。
 


「高野先生、そういえば、あの、」
 池の水面を撫でてきた涼しい風が、高野先生と私の間をさわさわと渡っていった。
「講義でお話になっていた、…影のことですが」
 高野先生はコップに入った冷たい紅茶が汗をかくのを見ておられた様子だったが、私の声に視線を上げていつもと同じに微笑なさった。
「影?」
「先生の御友人の方のお話です。あの、白い影の」
「……ああ。ああ、あれか。うん、それがどうかしたのかね?」
「あの、…その方は」
 コップの中の氷がかろん、とたてた音にも私は飛び上がってしまいそうだった。どくん、どくん、と脈打つ音が耳のすぐそばで鳴っている。
「その方は、どうなったのですか」
 不安と緊張が入り混じった私の表情は、高野先生には真剣な顔に見えたのか、先生もいやに真面目な顔をなさって
「どう、とは?」
と仰った。
 私は、ほんの一時下がった体温がまた急に上がるのを感じた。手の平が冷たい汗をかいている。体の芯は熱いが、指先や喉の辺りが凍りついたような妙な感じだった。
「例えば、その、…白い影が見え出して、…それから…しばらくして亡くなられた、――とか、は」
 高野先生は私の目をじっと見つめて、それから急に笑い出した。
 私が呆気にとられていると、高野先生はさも楽しそうに笑い続けながら、
「きみは面白い事を言うな」
 と仰った。
 高野先生があまりにお笑いになるので、私は恥ずかしくなって、俯いて紅茶をすすった。
「あれはそんなに恐ろしいものではないよ」
 


 高野先生は、もしやあの白い影に触れたことがあったのではないかと、ふと思ったのは、秋も終ろうとしているころだった。
 やわやわとして、よいにおいのする、あの切なく美しい影を、高野先生も抱きしめてしまったのではなかろうか。
 それはいったいどんな顔で、どんな姿で、どんな声をしていたのだろうか。
 私はふと、あの優しく甘い桃の香りをかいだような気がして、冷え始めた秋の空気の中、白い影を探してあたりを見回した。









2004年3月
2011年8月若干加筆

間のシーンが空いて、きちんと繋がってないので、長いんですが中途半端です。


 

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