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浪舞
 

「高虎!」
「家康様!」
 白い光の壁に吸い込まれた藤堂高虎へ駆け寄ろうとした徳川家康の前へ、井伊直孝が立ちふさがった。栗色の目で直孝を睨みつけ、家康は
「退きなさい!」
 あたりの空気が震えるような声で怒鳴りつける。かつての家臣、井伊直政の赤い甲冑装備をそのまま引き継いだ直孝は一瞬たじろぎ、しかしすぐに険しい顔で
「退きません!」
 怒鳴り返した。戦場の音が――剣戟の音、悲鳴、怒号、銃声があたりにわんわんと渦巻いて満ちるのを、二人の声が切り裂いて響く。
「敵がすぐそこにいるのに何を考えてるんです!」
 家康は苦しげに顔を歪め
「私はあの光を何度も見てきた、あれは――」
 あれは、と呻くように言ってうつむき、苛立った仕草で頭に手をやると緩くウェーブがかかった焦茶色の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
 白光の壁の中、高虎は黄金色の槍を地面へどっと突き立てて、は…と息を吐いた。
 戦闘の中でもつれた、茶がかった濃い桜色の髪を適当に指で梳き、半ばめくれあがりそうになっていたスカートの裾をぱっと払って直す。芥子色のブレザーはとっくにどこかへやってしまっていたし、黒いベストの金ボタンが一つ千切れて無くなっていた。
 あまりにも騒々しい場所から急に静かな空間に移ったためにおかしくなった耳が気持ち悪くて、ごまかすように頭を振る。
「落ち着いたものだ」
 感心したような、どこか呆れたような、低い声が不意に背後からそう呟いた。高虎が振り向くと、全身を黒いセーラー服で包み、癖のある長い髪をポニーテールにした少女が一人、光の壁にもたれかかって立っていた。
 すんなりとバランス良く長い手足は白く、髪と胸には真紅のリボンが結ばれている。その姿が高虎には確かに見覚えがあったが、白い肌によく映える、新緑を思わせる翠玉色の瞳だけが違っていた。
「これはお前の物語の終わりの光」
 薄い唇が笑いながら告げる。
「さあ、オレと遊んでくれよ。お前の望みを、かなえるために」
 高虎は黙ったまま、地に突き立てた槍を再び握りしめた。






「……とら、…高虎」
 日の暮れかかった教室に、机と椅子が整然と並んでいる。太陽の光が燃え尽きる赤になる少し前、目映い黄金色で雲を染め上げていた。
 半分閉じられたカーテンにもその光は差して、無味な白を温かい色に変えている。薄い水色のシャツはぼやけて薄灰色になり、紺のブレザーとスカートは黒く沈んだ色に変わっていた。高虎は机に突っ伏すために組んでいた腕をゆるゆると上へ伸ばして、伸びをする。
「どうしたの、高虎。夢でも見てたみたいな顔」
 言いながら、その小さな身体がすっぽり隠れてしまうほど大きな地図を宙へひょいと退け、ぱちりと指を弾くと別の画面が開く。どこかまだぎこちない手つきで画面をなぞり、少女は時々高虎を不思議そうに見た。
「大丈夫…?」
 ベージュに染まったカーテンがばら色に変わるのを高虎は見ていた。手に握っていたはずの槍はいつの間にか消え失せ、紺色のブレザーに同じ色をした制服のスカート、薄水色のシャツの首には緩めたネクタイが巻きつけられている。
 訝るように、困ったように、少女が小首を傾げた。柔らかそうな髪が肩口で揺れる。幼さの残るふくよかな頬。飾り気の無い優しげな顔、小さな手の甲には朝倉の紋──
「……長政様」
「なあに」
 一歩踏み出すと、コト、と靴が鳴った。まだ新しい黒のローファーが滑らかに足音を作る。高虎は両サイドから背中へ流した細い三つ編みが、『まだ』長かった髪と一緒になって揺れるのを不思議と懐かしく思った。
 整然と並んだ机と椅子の間を通り抜け、長政が座る席の前へ立った高虎は、自分を見上げる主の頬へそっと手を伸ばす。
 目の前に広げていた画面を通り抜けた高虎の手が、長政の頬にひたりと触れた。
 ゆる、と撫でると肩をすくめて長政は笑う。
「くすぐったい」
 つられたように頬を緩めて微笑んだ高虎が口を開いた時だった。
 ばら色に染まったカーテンがざあ…と不安げにたなびき、ぱっと立ち上がって窓辺へ駆け寄った長政の目の前で、燃え落ちようとする太陽の最後の光が、金色とばら色の美しい空を飲み込んで真紅に染め上げた。
 緊急を知らせるウィンドウが次々に開き、細い肩に緊張が満ちて強張る。桜色の爪が色を失うのにもかまわず、窓枠の鉄に爪を立てる。高虎は素早く地図を開き、一瞬、息を呑んだ。
「……わかっていたの、…こうなるって」
 押し殺してそれでも震えている声がぽつりと呟く。
 北に朝倉の紋、やや外れて浅井の紋。それから、燦然と輝く白色で織田の木瓜紋が地図には大きく浮き上がっていた。
 窓枠から離れた手が今度は自分の腕をぎゅっと掴む。
 高虎は思わず長政へ駆け寄り、ぱっとその手をとった。
 青ざめた顔が、おそろしく赤い夕陽に白く透き通るように見える。冷えた小さな手を、高虎はいよいよ強く握り締めた。
「行きましょう」
 まだ柔らかい手がすがるように握り返し、高虎、と震える声が零れる。
 様々な情報を知らせる小さなウィンドウが、二人の間に溢れて、ほんの一瞬、高虎は目をつぶった。
「高虎」
 中華風を模した飾り格子の窓辺に吊り下げられているガラスの風鈴が、涼しげな音を立てる。うっすら汗ばんだ肌に、部屋を通り抜けていった風が心地良い。
 窓の外の明るい陽の光とは相反して薄暗い部屋の中ほどで、籐の椅子がかすかに軋む音。
 飾り格子の影が、白い素肌の爪先に不思議に隆起して模様を作っている。
「帰りましょうか、そろそろ」
 高虎は鎧戸を閉めた。かみ合わない細い隙間からわずかに光が差し込む以外に光源は無く、薄暗い部屋が一層暗くなる。
 素足の爪先で影と遊んでいた少女が、薄く息を吐く。
「帰りたくないなあ」
「…秀長様」
「秀吉、最近おかしいの。気付いてるでしょう、高虎も」
 風が遮られた部屋は、ほんの少しの間に気温が上がったようだった。高虎は答えずに開襟の白シャツの襟元をはたはたと動かす。肩までの長さの髪が汗ばんだ首筋にまとわりついた。
 秀長は、一本の三つ編みにした髪の先に結んだ上品な青緑色のリボンを指先でもてあそび、仕方なさそうに籐の椅子から立ち上がる。
「──先が見えてるわ。秀吉も、…私も」
 溜息のように囁いて、秀長はすっと手を差し出す。
 窓辺にいた高虎は、薄暗闇の方へ迷い無く進むと、差し出されたその手をとった。
 近付くと、秀長には静かな清い水に肌をさらしているような冷たさがある。
「それでも、最後まで一緒にいてくれる?」
 そう上目遣いに見上げる秀長の、片方の瞳だけがかすかな光を映して琥珀のように煌めく。華奢な指先が、高虎の肩で揺れる三つ編みの先、秀長が結んでいるのと同じ色のリボンをくすぐった。
 ふっくらした唇が微笑み、リボンをくすぐった指が高虎の頬へ伸びる。
 目を閉じると、水の気配が濃く、近付いた。
 頬に触れていた優しい手の感触が消える。そっと瞼を開くと、そこは濃さを増した闇の中。
 数歩先にぼうっと浮かび上がったのは、凛とした、しかしどこか脆く、儚さを滲ませた後ろ姿だった。
 肩に少しかかる長さの黒髪。ざあ…と闇の奥から吹いてきた、重たい霧の気配を含んだ冷たい風に、その黒髪が揺れる。
 やや明るいモスグリーンのブレザーと、同じ色のスカート。首に纏わりついていた薄墨色の布がばさりと足元に落ちた。
 その後姿に名前を呼ぼうとした高虎は、瞬間、ごうっと恐ろしい音を立てて吹きつけた風から身を守ろうと顔の前へ腕を上げて目を閉じた。
 ごうごうと吹く風の中で、低く落ち着いた声が聞こえる。
「高虎──」
 目を開けると、風から身をかばう腕の隙間から、ブレザーの腕がゆっくり上がり、白い手が二人の真横を指さすのが見えた。
 少女は振り向かない。ただ右腕で闇を示した。
「お前は道を間違えるな」
 闇のずっと奥にごく小さな点のような光が見える。
 そう思った瞬間、その光が急に溢れ、高虎を包み込んだ。
 黒髪の少女は闇の中で、ふと、こちらへ顔を向ける。高虎は手を伸ばし、その少女の名を叫ぼうとした──






 分厚いガラスが砕けて割れるような音が響き、零れる光が、高虎の頭上から降り注いだ。
「高虎!」
 はっと声に振り向けば、宙に砕けてきらきらと光る欠片の中に、柔らかいクリームがかった茶髪の少女がひとり。高虎を取り囲んでいた光の壁を打ち壊した大太刀を手に、乱れた髪も気に留めず、そこへ立っていた。
 肩で息をし、栗色の瞳にはいっぱいに涙を浮かべている。
「──…家康、様」
 足元に転がる光の壁だった瓦礫を飛び越え、家康は高虎の元へ駆け寄った。
 胸ぐらを掴み、
「私は、お前が『終わる』ことを、絶対に許さない!」
 涙をほろほろと零しながら絶叫する家康に、高虎はどうしようもなく苦しげに微笑む。
 黒ずくめの少女――カミサマの姿は、いつの間にか消えていた。





 

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あきゅろす。
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