秘名
生活指導室から出るともう随分暗くなっていた。
「気をつけて帰れよ」
さっきまであたしに説教していた教師がそう声をかけてきたのを無視して、だらだら歩いている野球部集団をかき分けて走る。
随分待たせてしまった。今日こそ、もう帰っているかもしれない。
肩に引っ掛けたカバンからケータイのストラップが零れて、一歩踏み出すのに合わせて揺れていた。
下駄箱からローファーを出してコンクリの床に投げ捨てる。代わりに上履きを突っ込んで、靴をつっかけたあたしは暗くなった玄関に背の高い影を見付けてほっと息を吐いた。
細身の真っ黒いロングコート。黒いブーツ。アシメの不思議な形をした髪も、メガネの縁も、マフラーもカバンもケータイも。持ち物が何もかも黒いその人の、冷たくて綺麗な顔だけが白く浮き上がる。
あたしの足音に気付かないのは、その耳にイヤホンがあるから。聞こえていないだろうけれど、あたしはそっと足音と気配を忍ばせて、その人の後ろからぎゅっと抱き付いた。
ひんやりと冷たいコートの布地が頬に当たって、白い首筋から不思議な良い匂いがする。イヤホンを外したその人は、ぎゅうぎゅう抱き付くあたしの腕を、降参、と言うようにぽんぽんと叩いた。
「ふふ、降参ですかー?」
「…そのままでもいいけど」
高い背から静かに降ってくる低くてなめらかな声が、くっつけた背中の内側からも聞こえてあたしはうっとりと笑った。
「遅れるよ」
無抵抗のまま、その人はケータイを開いて時間を見たようだった。お揃いのストラップの一つが、しゃら、と揺れる音。
「もうちょっと」
甘えたくて言ったあたしの手に指を絡めて
「……兼続」
呼んだ瞬間、全身に鳥肌が立ってあたしはぱっと離れた。
ゆっくり振り向いて、黒縁メガネの奥で黒々とした目が微かに笑う。
「……ずるい」
「遅れるよ、兼続。行こう」
ケータイをコートのポケットに仕舞って、手を差し出す。一瞬の迷いもなくその手を取ったあたしは、
「――はい。景勝様」
背の高いその人の隣へ並んで歩き出した。
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