番外-平家物語 敦盛最期
「逃げるのか!」
上擦り気味の声が風に乗って届いたのか、将が一人、ざっと踵を返した。こちらへ向き直ったその遥か後方で、将の味方が次々と霞の向こうへ消える。
波打ち際、濡れた砂を踏みしめて直実はまだ西の空にかかる三日月に向かって腰の刀を抜いた。
――あの時も同じ月が出ていた。
ほんの数日前のことだ。直実は寝付けずに、ぶらりと市街地のフィールドへ出た。
平日の明け方にほど近い時間は、戦場フィールドはともかく市街地には人が少ない。歩く内に、名もないような小さな橋へ差し掛かった。
小川の上に架かった橋の上には先客があり、直実はそこで足を止めた。ころ、ころ、と聞こえるのはオルゴールの澄んだ音。
薄く明け始めた空の反対側では細く白い月が藍色の中に浮かんで、橋のすぐそばでは桜が散っていた。
オルゴールがゆっくり止まると、キリ、とネジを巻く音。再び流れ出したそれに耳を傾けていると、
「――…こんばんは」
顔が見えるほどには明るくない夜の中から優しい声が直実へ届く。
「こんばんは」
直実が答えたあとは、無言だった。直実も特に話しかける事もなく、ややあってまた音が止まる。
今度は膝にかかる丈のスカートがひらりと揺れて、それきりだった。
渾身の力で振り下ろされた直実の攻撃を受け止めきれず、相手はふらついて砂地へ膝をついた。その制服の裾を、寄せる波が濡らす。
直実は容赦なく攻撃を打ち込み、刀で受け切れなくなったその将は、とうとう左肩へ直実の刃を受けた。
「っ、あ!」
声を上げた、その肩を蹴り飛ばし、仰向けに倒れた相手へとどめを刺そうとした、その時。
直実はその時初めて、その将の顔を見た。
背中の中ほどまでありそうな長い黒髪が、砂にまみれて波にたゆたう。戦いのために上気した頬は、あの橋に咲いていた桜と同じ色をしていた。
討つ手を止めた直実に、非難じみた苦しげな声が飛ぶ。
「わたしの負けだ。どうして討たない!」
その声――
「……あなたは、…あの夜の……」
「…情けをかけるつもりなら、わたしは自分で首を切る」
少し乾いた、色失せた唇が直実へ烈しい声をぶつけた。
言葉を失った直実の周りに、味方のログインを示す表示が隊ごとにいくつも現れ出す。
「斬れ。はやく」
黒く濡れた瞳が瞬き、その、凛とした声が消えるか消えないかの瞬間――
直実はとどめを刺した自らの刃を彼女の首から引き抜き、溜め息すらつけずに緩慢に立ち上がると、膝についた砂を払った。
見下ろしていると、制服のポケットから銀色の細い鎖が伸びているのが目に入った。直実は途端に震えだした手を伸ばし、その鎖を掴む。
引き出された鎖の先には、あの夜鳴っていた小さなオルゴール。
キリ、とネジを巻き、蓋を開けると、ころ、ころ、とそれは鳴った。
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