短編小説 1-1 ボロのアパートでは隣の音なんていうものは丸聞こえだ。 少しでも大きな声を出そうものなら内容までも聞き取れるほどで、プライバシーなどあったものではない。 彼、早乙女勇(サオトメ イサミ)も例外ではなく、隣人の騒音に悩まされているうちの1人だった。 勇の実家は某大手建設会社を経営している、世間では金持ちと言われる家庭だ。 彼も25歳と言う若さでそこの若専務としてバリバリ働いているのだが、そんな彼の住まいは何故かこんなボロアパート。 トイレや風呂が共同でないのが唯一の救いだが、先にも述べたように隣の声が筒抜けな程壁も薄けりゃ立て付けも悪い。 築ん十年というこのアパートの家賃は都内では破格の3万円台だが、ゆくゆくは社長という坊々の彼が金に困っているわけがあるはずもなく。 それどころか身につけるものは全て高級品だったり、素材に拘っているものだったり、と、とにかく金が掛かっているのは一目で分かるほどのものなのだ。 彼だって別にここにずっと住んでいたわけではない。 引っ越してきたのはつい先月、桜の散った後のこと。 営業先の帰りに車から見かけた、路地を1つ奥にいったところにあったこのアパートに彼は一目惚れしたらしい。 幼稚園から高校までを全寮制のお坊ちゃま校で、大学は少女趣味の母のいる実家から通い、きらびやか且つファンシーな世界に飽き飽きしていた彼には新鮮に映ったのだろう。 勇ののほほんとした両親はいい経験だといって送り出してくれ、歳の離れた高校生の弟は夏休みに遊びにいくね。と言っていた。 だが、黒光りした台所を住処にする触覚の長いギャングがいることはその弟には内緒だ。 それと、例のちょっと困った隣人の騒音も。 なんせその弟は大の虫嫌いだったし、勇とは違い純粋培養で育ったためこの騒音にも耐えられないだろう。 だってその騒音というのが・・・。 「ん・・・んっ!は・・・っ」 「あぁ・・・っ、あ・・・はぁんっ!」 情事の最中の声となればなおさらだ。 [*前へ][次へ#] [戻る] |