オレンジ
「38度5分……下がりませんわね」
午前七時。体温計を見つめながら、あやかは呟く。
昨晩から出始めた熱は、朝になっても引くことはなかった。
どこかぼーっとする意識の中、体温計を置いてベッドに戻ると間も無く、部屋に千鶴が入って来た。
「あやか、具合はどう?」
「まだ熱が下がらなくて……」
「そう、今日は休むしかなさそうね」
ここ数日、学園祭の準備やクラス委員の仕事などで多忙な日々が続いていた。きっとその疲れが出たのだろう。
作業もまだ大分残っているし、委員長としてクラスメートを引っ張っていかねばならないのだが、無理して学校に行って誰かに風邪を移してしまっては本末転倒だ。
あやかは学校を休むことにした。
「すみません。ネギ先生によろしくお伝え下さい」
「ええ、分かったわ」
「それと、学園祭の企画書なんですが――」
「はいはい。今はそんな事いいから、ゆっくり休みなさい」
千鶴はあやかの頭を撫でると、部屋を出て行った。
雰囲気だけでなく、本当に母親のような人だなと、改めて感じたあやかであった。
扉の向こうからは、あやかを心配する夏美や小太郎の声がしていたが、気がつくとそれも聞こえなくなっていた。
時計を見るともう十時過ぎ。
ウトウトしている内に、みんな学校へ行ったようだ。
「静かですわね……」
登校時間を過ぎた今、外からは人の声がほとんどしなかった。
窓から差し込む暖かな日差しは、彼女に時間の流れをゆっくりと感じさせる。
天井を映す視界が、だんだんとぼやけてきた。そして穏やかな空気が再び彼女の目蓋を落とそうとした、その時。
扉の向こう――玄関ドアが開く音が聞こえた。
眠りから意識を戻されるあやか。
(誰でしょう?時間は……ちょうど休み時間の頃合ですけど)
鍵を開けられたということは、女子中等部に関係のある人。
時間帯は休み時間。
そんな時に寮に来ることが出来るのは――
(もしかして、ネギ先生!?病の床に伏す私を心配して見舞いに……。嗚呼、なんてお優しい方なのでしょう!)
広がるあやかの妄想。
慌ててベッドから身を起こし、ネギを出迎えに行こうとしたが、妄想は所詮妄想でしかなかった。
あやかの期待に反して聞こえてきたのは、ネギの声ではなく
「いや〜、やっぱ校舎から走ってくるんはきついわ〜!」
小太郎の声だった。
かなりがっかりしたあやかだったが、一応迎えには出た。
「小太郎さん?」
「あやか姉ちゃん!? 起こしてしもうたか?」
あやかの声に振り向いた小太郎の顔には、びっしょりと汗が浮かんでいた。呼吸も少し荒い。
かなり急いで、ここまでやって来たようだ。
「いえ、丁度目が覚めたところです。それより、こんな時間にどうしたんですか?」
「へへっ、これこれ!」
そう言って小太郎は、少し大き目の紙袋をあやかに手渡した。
袋はずっしりと重い。
「鮮度が命やからな。取れたて新鮮やで! ほな、俺は学校戻るわ。またな〜!」
「あっ、ちょっと、小太郎さん!」
袋の中身が何か告げずに、小太郎は玄関を飛び出していった。
ポツンと残されたあやか。
袋の中身に疑問を感じながら、とりあえず部屋に戻る。
「何が入っているんでしょう? ――まあ、これは……」
開けてすぐに、爽やかな香りが広がる。
中にあったのは、瑞々しい輝きを放つ、色鮮やかなオレンジだった。
そう言えば今朝、まだ千鶴たちが部屋にいた頃、ぼんやりとした意識で聞いていた小太郎の言葉を、あやかは思い出した。
“あやか姉ちゃん風邪ひいたんか。そんなら俺がええもん持ってきたるわ!”
「良い物って、これのことだったんですね。あら、これは?」
いくつもいくつも入ったオレンジの陰に、折りたたまれた紙が入っている。
取り出してみると、それにはこんな言葉が記してあった。
“他人の世話するのも大事やけど、自分の事も心配せなあかんで”
破いたノートのページに、書きなぐったような文字。手紙と呼ぶには少々乱暴なそれからは、送った人からの優しさが十分に感じられた。
「ありがとう。小太郎さん」
机にオレンジを置くと、あやかは再び眠りについた。
その寝顔はどこか満たされたような、とても穏やかなものだった。
陽の光を浴びるオレンジは鮮やかな色を放ち、彼女を見守るかのように佇んでいた。
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