光の在処
今日も忙しい一日だった。
学生の本分である授業。生徒会役員としての職務。隠密部としての任務。その他にも色々とゴタゴタがあり、気の休まる暇のない一日だった。
疲れる。肉体的にも精神的にも。
だがそんな疲労感が、最近の久遠には心地良く感じられていた。
理由はよく分からない。でもきっと、それは他人からしたら大したものではないのだろうと、久遠は思っている。
日常の、ありふれた何か。
それが彼女には新鮮だった。
「私も、すっかり丸くなりましたわね。あら?」
部屋に戻ろうとリビングの横を通りかかった時、久遠はそこに、奈々穂が一人でいるのを見付けた。
時間は夜の八時を回った辺り。
いつもなら、テレビを見に来ている人がいて賑やかな時間帯だが、今日は珍しく静かだった。
「一人で退屈じゃありませんこと?」
ソファーに座った奈々穂の背後から、久遠は声をかけた。
「久遠か。お前も一緒にどうだ?」
奈々穂は振り返らず、じっと画面へ目を向けたままで返事をする。
何をそんなに真剣に見ているのだろうと思いテレビを見ると、映っていたのは野球中継だった。
白地に黒いピンストライプのユニフォームのチームと、薄いグレーにオレンジ色のラインが入ったユニフォームのチームが試合をしている。
カメラ写す観客席は人でびっしりと埋まっていて、一面に黄色いメガホンのような物がうごめいて見える。
「ずっと一人でご覧になっていたのですか?」
奈々穂の隣に座って久遠は尋ねる。
「れいんやりのもいたんだが、途中で飽きたと言って行ってしまった」
前を向いたまま、奈々穂はそう答えた。
奈々穂には悪いが、久遠もれいんたちと似たような意見を持っていた。
ルールも知っているし、嫌いというわけではないのだが、見慣れていないせいか、イマイチ面白さが分からない。
それに――
「奈々穂さん」
「なんだ?」
やっぱり奈々穂の目は画面を向いたまま。
「……いえ、なんでもありません」
彼女がこちらを向いてくれないのも、久遠には面白くない。
返ってくる返事もどことなく上の空で、自分がいてもいなくても同じような。
もう少し、こちらに気を向けてくれてもいいのに、と頬を膨らませる。
せっかく声をかけたのに……。
奈々穂に気付かれないように一つ溜め息をつくと、久遠はソファーに体を預けた。
(やめましょう……。まるで、小さな子供ですわね)
構ってもらえなくてやきもきする自分を、彼女は心の中で自嘲気味に笑った。
ソファーの弾力は強すぎず弱すぎずの丁度良い案配で、疲れた体を労ってくれているようだった。
その感覚は、程なくして彼女の眠気を誘った。
いけないと思って意識を起こすが、すぐに目蓋が下がってくる。
音は段々と遠ざかり、ぼんやりとした視界も、光を失っていく。
そして、何も見えなくなった。
今まで彼女は、“それ”を見過ごしていた。
いや、見ようとすらしていなかったのかもしれない。
自分と世界との間に壁を作り、どこか冷めた目で外を見ている日々。
今なら彼女は言える。
それが間違っている事だと。
それが、なんともったいない事なのだろうと。
世界はこんなにも、嗚呼こんなにも――
暖かいものを感じる。
自分を包み込んでくれるような、優しい感触。
ああ、これだ。
今の銀河久遠が新鮮に、大切に思っているものはこれなんだ。
どこにでも存在する、誰だって持っている、未来永劫過去永劫、不変のもの。
それを私に示してくれたのは
それを私に与えてくれたのは
きっと――
聞き慣れた電子音に気が付いて、久遠は目を覚ました。すぐ横で、愛用の目覚まし時計が時間を告げている。
ということは、ここは自分の部屋?
起きて回りを見回すと、その通り、久遠の部屋だった。
「いつの間に……?」
時計のアラームを止めようとすると、その下に紙が敷かれているのが分かった。
何だろうと取ってみると、そこにはたった三つの言葉だけが書かれていた。
《おやすみ。ごめん。奈々穂》
うっすらと思い出される、昨晩の記憶。
ぼやけた意識に記憶されているのは、奈々穂がここまで自分を運んでくれたという事。
そして、それよりももっと曖昧で、もしかしたら夢なのかもしれない程に微かに残った
頬への甘い感触。
その部分が、やけに熱く感じる。
頬に手を当て、久遠はしばらく、ぼうっとしたままだった。
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