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真夏の夜に
 
 日付も変わり、時計は深夜一時を回ろうかという頃。
 普段ならば夢の中にいるであろう時間帯にもかかわらず、市川まゆらはこの夜、未だ寝付けずにいた。
 その理由は単純にして明快。

「……暑い」

 夏の夜独特の蒸し暑さが、彼女の眠りを妨げる。
 掛け布団はとっくに払い除けられ、薄手のタオルケットですら煩わしく感じる。
 年頃の娘がはしたないと思いつつも、パジャマの上着のボタンはほとんど外され、団扇を片手に、ぐで〜っと横になっていた。
 額では汗が流れては浮かび、浮かんでは流れる。
 彼女がこんなにも暑さに悶える理由。これもまた、単純且つ明快だった。
 エアコンの故障である。

「エアコンのバカ……」

 機械が苦手で敬遠しがちなまゆらであったが、そんな彼女でもエアコンには理解を持っていた。
 信頼出来る数少ない機械の一つだったのだが、それも今夜の事で考え直されてしまうかもしれない。

 よりによって、こんな熱帯夜の日に故障するなんて……。
 やっぱり機械は信用できない。
 さらに言えば、エアコンというものに依存してしまったために、自分はこんなにも自然の暑さに弱くなってしまった。
 最初から頼りにしていなければ、こんなに暑さに苦しむ事もなかったであろうに。
 大体、昔の人はエアコンなんてなくても……

 心の中で繰り返される文句。
 気分を粉らわすための行為だったが、そのせいで眠気が覚め、余計に眠れなくなってきてしまった。
 イライラしたせいで、体温も上がった気がする。
 嗚呼、悪循環。
 ひとつ大きく息を吐き、体を起こして時計に目をやる。
 時刻は一時半過ぎ。消灯してから二時間近く経っている。

「何か飲んでこようかな……」

 そうすれば少しは体も冷えるだろう。
 汗を拭き、パジャマの着崩れを整えると、まゆらは自室を出てキッチンへ向かった。

 薄暗い寮内を進む。
 部屋より少しは涼しいかなと期待していた廊下は、ほぼ部屋の中と変わらなかった。
 本当に今夜は“熱帯”夜と呼ぶにふさわしい夜だ。
 日本ですらこんなに暑いのに、本場の熱帯地域の夜はどんなものなのだろう?
 そこに住む人からすれば、日本の熱帯夜なんて軽いものなのだろうか。
 ちょっと考えてみたが、どうでもいい事なので思考を中止した。
 自分が暑いと思えば暑いのだ。
 赤道付近で生活する人の意見なんて知ったことではない。
 とにかく暑い。もうそれでいっぱいだった。

「もう……何でこんなに暑いのよ」

「それは、今の季節が夏だからじゃないですか?」

 独り言の返事が背後から返ってきた。
 突然の事に驚いたたまゆらは反射的に後ろを振り返るが、そこにいた声の主を確認してほっと胸を撫で下ろす。

「聖奈さぁん、びっくりさせないで下さいよ……」

「ふふふ、ごめんなさいね」

 楽しそうな笑顔を見せる聖奈。どうやら確信犯だったらしい。

「聖奈さん、どうしてこんな所に?」

「ちょっと眠れなくて、キッチンに飲み物を取りに行ってたんです。そしたら、部屋に戻る途中でまゆらちゃんを見つけて……」

 こっそりと忍び寄り、まゆらを脅かす機会を伺っていたという。
 本当は声をかけるのではなく、後ろから抱きついてやろうと思っていたのだが、「それだと悲鳴をあげてしまって、後々面倒な事になりそうだから却下しました」と聖奈は語る。

「脅かさないっていう選択肢はないんですか?」

「無いです」

 溢れんばかりの笑顔を見せられ、まゆらは返す言葉を失ってしまう。
 この程度で済んでよかった……。
 
「ところで、まゆらちゃんはこんな時間にどうしたの?」

「聖奈さんと同じです。私も眠れなくて、何か飲もうかなって。実はエアコンが故障しちゃって……」

 今晩の出来事を説明する。
 うんうんと相槌を打って話を聞いていた聖奈だったが、何かを思い付いたようにポンと手を叩く。

「そういう事でしたら、私にグッドアイデアがあります」
 
「なんですか?」

「ちょっと私についてきて」

 回れ右して歩き始める聖奈。
 まゆらは言われるままに彼女の後について行く。
 廊下を行き、階段を上り、たどり着いた場所は、階段の終着点。

「ここって……」

「はい、屋上で〜す」

 外へと繋がる重い鉄の扉が、ゆっくりと開かれる。
 青味を帯たように見える光が、暗い階段の踊り場に差し込んでくる。
 そして一歩を踏み出すと、まゆらはここが、まるで別世界であるかのように感じた。

 「涼しい……」

 気温は然程変わらないだろう。しかし穏やかに吹き抜ける風が、それを忘れさせてくれる。
 フェンスの側に立ち、眼下に広がる景色を見つめる。月明りに照らし出される木々。その向こうには、海が見えていた。

「極上寮は割りと高台に造られているし、しかも海沿いにあるから、夏でも夜風がとっても涼しいの」

 まゆらの隣で聖奈が言う。
 その両手には、お茶の缶が二本握られて、聖奈は一本をまゆらに差し出した。

「エアコンに慣れちゃうと、寝るときに窓を開けようなんて思わないでしょう?」

「そうですね。部屋が暑いから、外も同じように暑いんだって思い込んじゃってました」

「私ね、自然ってうまく出来てるな〜って思うの」

 呟くように聖奈は続ける。

「昼間はとっても暑くて嫌になっちゃうけど、日が沈んだ後は、まるで昼間の苦労を労うように、こんなに素敵な夜がやって来る……。明日も暑いけど頑張れって、言われてるみたい」

 「飴と鞭ね」と言って聖奈は笑う。
 受け取ったお茶を一口飲む。程よいお茶の苦味が口に広がり、乾きを潤していく。
 綺麗な月明かりと、心地よい夜風。
 あんなに暑い暑いと思っていたのに、今はもうすっきりとした気分だ。

「よかった。ちゃんと涼めたみたいね」

 微笑みながら、聖奈はまゆらに言った。
 まゆらも笑顔でそれに答える。

「はい。とっても」

 空を見上げてみる。
 雲の少ない夜空に、月が力強く輝いている。

 今夜は気持よく眠れそうだ。いや、今夜に限ったことじゃない。
 これから先、また暑い夜があっても、この風を、この景色を覚えているなら大丈夫な気がする。
 それを知るきっかけをくれたのだから、壊れたエアコンについては、

「プラスマイナスゼロということにしましょう」

「ん?何か言った?」

「いいえ、何でもありません。あ、聖奈さん、あの星見てください!」

 夏の夜は更けていく――


 


あきゅろす。
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