[携帯モード] [URL送信]

小説
第八話
頭を撫でられている。
優しい手付きだ。
ゆっくりゆっくりと動くその手が、やけに心地いい。
このままいつまでも目を閉じていたい。

しかし、遠くの方では誰かが忙しそうに走り回っている。
もう朝だろうか。
朝なのであれば、学校に行かねばならない。
起きて用意をしなければならない。

節子は、緩慢と重い目蓋を開けた。
一番に目に映ったのは、上品な薄色の布だった。

これは何だろう。

目を瞬いてみる。
朧げだった視界が明瞭になっていく。
薄色の布は、上等そうな着物だった。

目線を上げてみる。
そこには、節子をじっと見詰めてくる若い男。

蛇神だ。

節子はばっと身体を起こした。
布団のように掛けられていたまた違う着物が、はらりと落ちた。

昨夜の記憶を懸命に辿ってみる。
確か己は、この蛇神に済し崩しに寝室に運ばれ、胸元で遊ばれてしまったのではなかっただろうか。

制服はきちんと着ていた。
何処も乱された形跡が無い。
外された胸部の下着もきちんと付けている。
寧ろ、今まで横になっていたというのに、服に皺一つ寄っていないだなんて逆におかしい。

「お目覚めかい、セツ」

蛇神は節子の髪を一房取って口付けた。
朝のまどろみの中、蛇神もご機嫌なようである。

部屋の向こうで、蛙達が何やら騒いでいるのが聞こえた。
この邸内の仕事でもしているのだろうか。

節子の顔はどんどん青ざめて行った。
昨日は、帰宅途中に此処に来てしまった。
塾に行っていない。
家にも帰っていない。
それなのに、己は眠ってしまっていたようだ。

あれから、どれだけの時間が経ったのだろうか。
此処はいつ来ても空が澄み渡っているようなので、きちんとした時間も分からない。

きょろきょろと辺りを探ってみる。
やはりこの部屋に時計らしいものは無い。

節子は、腕時計や携帯電話なるものも持っていない。
時間を知る術は、何処にも無い。

蛇神の腕を振り切って、節子は立ち上がった。
そして、そのまま翔って部屋を出た。

寝床の大部屋を出たところで、節子の鞄を抱えている青髪の少年に会った。
有無を言わさず、その鞄を引っ手繰る。
少年は驚いていたが、謝る気にもなれなかった。

帰らなければ。

帰り方も分からないまま、節子は走った。
以前帰宅した際は、蛙がきちんと送り届けてくれたのだが、今はそれを頼めそうも無い。

舘の出口はすぐに見付かった。
律儀に揃えられていた靴に足を突っ込む。
そして、無我夢中でひたすら走った。

殿舎を出、反り橋を渡る。
橋の向こうは砂浜だ。

家に帰らなければ。

その一心の思いで足を動かした。
ぎゅっと目を瞑り、元居た場所に帰してくれと願った。
願う相手は、神であって神ではない。
あの蛇神という男も神の一人なのだから、その当の神にお願いする訳にもいかないからだ。

だが、節子がふと気が付いた時には、彼女は祠の前に立っていた。
目の前に住宅街がある。
少し目線を動かせば、我が家も見える。

空は青く澄んでおり、南東の位置に太陽が昇っていた。
朝だ。
此処は、節子の自宅付近だ。

訳も分からぬまま、節子は柏木家へと向かった。
玄関を開けた瞬間待ち構えていたのは、不安と怒りを綯い交ぜにした母親の姿だった。
節子を見たきり、母は泣き出しそうな顔になった。
そして、ぎゅうときつく抱き締められた。
そうかと思えば、今度は懇々と説教が始まった。

母親の説教を聞きながら、やはり一夜は過ぎてしまったのだな、と節子は思った。
あの不思議な空間は、いつも朝だ。
だから、自分が一体どの時間の狭間に居るのかも分からなくなる。

けれど、此方の世と同じ程の早さで時が流れている事は分かった。
節子が昨夜眠っていたのは、恐らく十時間弱。
此方の世界の時間が経ったのも、それと同じくらいだ。

漸くの思いで説教から解放された節子は、すぐに学校に向かわされた。
母に蛇神の事は言わなかった。
娘がおかしくなったと思われたくなかったからだ。

登校する節子の背中を見ながら、母は会社に行った父に涙ながらに電話していた。
恐らく、無事に娘が帰って来た事の報告だろう。

母には大きな隈が出来ていた。
昨夜は一睡もしていないのかもしれない。
不可抗力とはいえ、悪い事をしてしまった。

その日の学校の授業は散々だった。
昨夜塾に行っていないせいで、予習も復習もほとんど出来ていなかったからである。
勿論、出されていた課題だって出来ていない。
あの蛇神という男も、神であるならばこれくらいどうにかしてくれればいいのに、と思った。

学校が終わり、塾にも行った。
塾に顔を出せば、美鈴がすぐにやって来た。
昨晩の事を根掘り葉掘り聞かれた。
心配した節子の母が、美鈴の家の方まで電話をしたようである。
だが、此処でも本当の事は言えず、節子は言葉を濁して誤魔化すだけだった。

塾の課題も出来ていない。
講師にたっぷりと叱られた節子は、もう辟易とした。
家では母に搾られ、学校の授業には付いていけず、塾でもまた説教を頂いてしまった。
たった一晩の生活が変わっただけで、この有様だ。

節子の周りは、思ったよりも目まぐるしく動いていたようだ。
ほんの一夜の懈怠も、なかなか取り戻せない。

塾の帰り際は、警戒して進んだ。
またあの少年達に会っては敵わないからだ。
仮に会ったとしても、今度は断固として断らなければならない。
私には私の生活があると、きっぱり言ってやらなければならない。

だが、節子の期待通りか、或いは期待外れか、その少年達は現れなかった。
必要以上に用心していたので、その平穏さに拍子抜けすらした。
家の門扉に手を掛けても、誰も出て来ない。
腕を引っ張られる事も無い。

もう己は蛇神と縁が切れたのだろうか。

はてと節子は首を捻った。
それならばそれで有り難い事なのだが、こうも簡単に終わってしまうとは。
何処かで彼に惹かれていた分もあったせいで、名残惜しいやら清々したやら複雑な気分だ。

もっと違う形で出会えたら良かったのに、と思った。
たとえば学校で、塾で、近所のお店で。
或いは、わざわざ無理矢理神隠し紛いの事をしなくとも、週に一回だけ決まった時間に逢瀬するとか。
遣り方は他にもあった筈である。

恥ずかしい事を強要されたが、その怒りも疾うに無くなっている。
性急な同衾には抵抗があるけれど、彼の優しい眼つきと声が好きだった。
この覚束ない感覚も「恋」とは違うだろうけれど、なかなかに甘美な感情だ。
だから、何処か名残惜しくて、可惜なようで、捨て切れない思い出でもあった。

節子は鞄の中に放り込んでいる鍵へと手を遣った。
節子が塾から帰宅する時間はいつも遅い。
その為、夕方を過ぎた柏木家では、チェーンまでは下ろさないものの、不審者が入って来ないように常に鍵が掛けられている。

節子は、鍵を戸の鍵穴に差し込んだ。
すると、近くにある植木の葉がざわざわと鳴り始めた。

ゆっくりと振り返る。
風も無いのに葉が揺れるだなんておかしい。
考えられるとすれば、少年達の出現だ。

しかし、其処に居たのは少年などでは無かった。
身体が半分以上削げ落ちた、到底人間とは思えない者だった。

長い髪の所々が抜け落ちている。
目は不自然に窪んでいて、口から覗く歯も不揃いだ。

節子は悲鳴を上げた。
その拍子に、鍵穴に入れていた鍵がちゃりんと落ちた。

化け物だ。
化け物が居る。

背中がどんと玄関戸にぶつかった。
家の中に入りたくても、鍵が何処かへ行ってしまった。

化け物は、静かに長い息をしながら節子へ近付いてくる。
何やらぼそぼそと呟いているが、果たして何と言っているのかは分からない。

節子は確かに大きな悲鳴を上げた筈なのに、家の中から誰かが出て来る事は無かった。
周り近所も静かなものだ。
聞こえていなかったのだろうか。

「お父さん、お母さん!」

節子は叫んだ。
助けを呼んだ。
だが、リビングからは相変わらず煩雑なテレビの音が聞こえている。
誰かが慌てて出て来る様子も無い。

やはり聞こえていないのかもしれない。
節子はもう一度大声で呼んだ。

母の笑い声が聞こえた。
テレビに出ているコメディアンの漫才で笑っているようだ。
父がそれに対して何かを言っている。
母がそれに返せば、今度は父も笑った。
節子の声は届いていない。

空気が急に冷たくなった。
その化け物が吐いている息のようだった。

節子は首を横に振り、「来ないで」と言った。
しかし、化け物は確実に距離を縮めてくる。
節子に逃げ道は無い。

「五行の一、火の呪」

誰かが呟いた。
節子ではない。
幼子の声だ。

その瞬間、化け物の身体が勢いよく燃え始めた。
真っ赤な炎が火柱のように立ち上がる。
化け物が、獣のごとく咆哮する。

火に包まれた化け物は、そのまま燃えきってしまった。
紙が容易く灰になるように、呆気ない間に全ては終わった。

化け物が居たその背後には、赤帽を被った少年が居た。
手に古臭い札まで掲げている。

「こんの戯け者が!」

少年が節子に向かって怒鳴ってきた。
節子は、何が何やら分からぬまま、「はい?」と返した。
恐怖で声が些か震えている。

「ぼけぼけしとるから、あんな下つ方に捕まるんじゃ。
放っといたら、今頃あいつの腹の中かもしれんぞ」
「そんな事を、言われても」
「大人しゅう蛇神様の所に居れば良かったんじゃ。
それを、わざわざ危険を冒してまで此方の世まで戻って来るなんて、阿呆のする事じゃ。
お前さんの護衛をせにゃならんわしらの苦労も少しは考えい。
この空けが!」

少年が近くにあった木の葉を毟り、節子に投げ付けてきた。
青臭い葉が顔面にぶつかる。
随分と乱暴な事だ。

しかし、少年が言うように、節子はこんな化け物に襲われる覚えなど無かった。
十六年間、今まで平和に暮らしてきたのだ。
霊だの祟りだの、そういったものとも無関係に過ごして来た。

未だ呆然としている節子に、少年は手を差し出してきた。
どうやら今日もあちらの世界に連れて行かれるようである。





TO BE CONTINUED.

2009.01.20

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!