[携帯モード] [URL送信]

小説
第六話
学校の教室。
教卓の前では眼鏡を掛けた教師が懇々と新しい英文法を解説している。
関係詞だの仮定法だの、様々な専門用語が飛び交っている。

それを必死にノートに書き留めるクラスメイト達。
しかし、節子は何処か上の空で、窓の外を眺めるばかりだった。

矢庭にあった猥褻な出来事から数日。
女の陰を舐められ、食事までお世話になった節子は、その後すぐに帰宅する事が出来た。
結局それ以上の行為を強要される事もなく、身体は綺麗なままだった。
一つだけ問題を取り上げるとすれば、下着を着けないまま帰された事だろうか。

節子は、全ては夢だったのだと言い聞かせた。
そうでも考えないと、理解出来ない事ばかりだったからだ。

確かに、その日に穿いていた下着が一つなくなってしまっているままだ。
あの社の中以外で脱いだ記憶も無い。

だが、本当に神など居るものなのだろうか。
居たとしても、そう簡単に会えるものなのだろうか。
何か得体の知れない厄介な夢だと思った方が、余程楽なのではないだろうか。

蛇神には「明日もおいで」などと言われたが、それ以降、節子が実際に彼に会いに行く事は無かった。
会いに行く方法など知らない。
仮に知っていたとしても行かなかっただろう。

蛇神という美丈夫は、節子にとっても非常に気になる男だ。
しかし、深く入り込んではいけないような気もする。
彼からは、人ならざる雰囲気がけだし漂っているからだ。

最後の授業を終えた節子は、緩慢とした動きで教科書を鞄の中に詰め込んだ。
いつもならばさっさと帰宅用意を終わらせ、塾へと急いでいただろう。

だが、どうもその気が起きない。
蛇神という男に会ってからの彼女は、常に心ここに在らずだった。
彼の事が気になるばかりで、他の事に集中出来ない。
あんなにも熱心に励んでいた勉学ですらも疎かになっている。

校門を出、自宅へと帰る。
例の祠がある場所は意図的に避けるようにしていた。
夢であると分かっていても、どうもその方角に足を向ける気にならなかった。
少々遠回りになったとしても、あの不可思議な経験をした元へは近付きたくない。

けれど、家の前には、その会いたく無い人物の一人が居た。
野球帽を被った少年だ。
蛇神曰く、その正体は蛙だと言う。
では、茶の帽子を被っているのは、茶蛙という事だろうか。

節子は後退りした。

「ちぃと、お前さん」

踵を返せば、其処にもまた違った少年が居た。

「貴方は」
「何で来んのんじゃ。
蛇神様はずうっと待っとるで」

居たのは赤帽の子だった。
これが赤蛙なのだとしたら、天井に吊るされていた子でもある。
両手を腰に当て、随分とご立腹なようだ。

節子は、へどもどと口を開いた。

「そんな事言っても、私」

上手い言い訳が見付からない。

まさか、また会うとは思っていなかった。
それも、このような待ち伏せを食らうだなんて。

あのおかしな出来事も、全て夢では無かったというのだろうか。

「行き方だって知らないし」

とりあえず出て来た理由は、それだった。
赤の少年の代わりに、今度は茶色の子が口を開いた。

「わしらが一遍見せたじゃろうが。
しだらない娘っ子が」

やはりこの子らは随分と口が悪いようである。
この場に蛇神が居れば、とうに叱られている頃だろう。
けれど、今はその主人が居ない。

大きな顔をした少年は、節子の腕を引っ張り始めた。
この展開も三度目だろうか。

「とりあえず、付いて来い」
「そうじゃ、付いて来い」

子供達は節子を連れてずんずん先導し、ついに祠の前まで遣って来た。
そして、以前と同じように姿勢を正し、手を合わせた。
その途端、ぐにゃりと視界が曲がった。
あの感覚だ。

節子はひしと足を踏ん張った。
それでもやや足の安定が悪くなったので、子供達にしがみ付くようにして堪えた。

暫くぐらぐらと揺れた後、ぱっと目の前が開けた。
しゃがみ込んだ膝に砂の感触。
また来てしまった。

此処は、あの蛇神の社だ。

「遅かったね、セツ」

顔を上げれば、すぐ其処に蛇神が居た。
今日は狩衣(かりぎぬ)の姿をしている。
相変わらず烏帽子(えぼし)は被っていない。
やや紫がかった薄色の簡易の狩衣に、濃い茶の指貫(さしぬき)袴。
ベルトともなる石帯はしていない。

だが、美丈夫は何を着ても様になるらしい。
横笛でも持っていれば、更に絵になる事だろう。

蛇神は膝を付いている節子を抱き起こした。
まるで小さな幼子のように軽々と抱かれてしまった。

しがみ付いていた少年達も、蛙の姿に戻っていた。
本来は、蛙姿のままの方が楽なのかもしれない。

呆然とした顔で青年の顔を見詰めてみる。
夢だとは到底思えない程のリアルな距離。
花の香を焚き染めているのだろうか、彼からは芳しい香りがした。

「翌日すぐに来いと言っていたのに、来なかったね。
もしや夢だとでも思っていたのかい?」

蛇神は怒っている風ではなかった。
それどころか、地に落とされた瞬間、今度は手を繋がれた。
恋人同士のようだ。

そのまま、社へと続く反り橋を渡る。

「はい、まあ、少し」

節子は頷いた。
神妙な態度に、蛇神も機嫌良く続ける。

「その顔を見るに、今も夢物語だと勘違いしているように見える」

図星だった。
どきりとした内心が表情にも出てしまったのか、蛇神は優しく笑った。

「残念だけど、此処は夢の世界なんかじゃない。
その証拠に、今月の月経はもう無かっただろう?
私が直接吸い出したからだ」

今度は頷く代わりに顔を赤くさせて応えた。

蛇神の言う通り、あれから節子には生理が無い。
ぴたりと止まってしまった。
膣の病かとも疑ったが、経血が出る以外は何処も不調が無い。
蛇神が本当に吸い取ってくれたと考えた方が容易だ。

「これを返しておこうね」

蛇神は袂から紙を出した。
紙は、何かが包まれている厚みがあった。

一体何なのだろうと軽く日に翳してみる。
薄い白の紙の中に見えたのは、ピンクのリボンだった。
節子が先日着用していた下着のデザインにも、大いに似ている。

はっきり確認した訳ではないので仔細は分からないが、しかしそれは確かに彼女の下着で、尚且つ血液の汚れも綺麗に落とされているようだった。
本当に洗濯して待ってくれていたのだろうか。
一向に会いに来ようとしない節子の為に、そこまでしてくれていたのだろうか。

節子は申し訳なくなって小さな声で礼を言った。

これが夢では無いというのならば、あの破廉恥な一時も、神という存在も、何もかもが真実なのだろう。
夢だ、夢だと無理矢理思い込もうとしていた作られた思考回路が、がらがらと崩れ落ちていく。
それならば、蛇神と小さな頃に交わした契約というのも、本当にあった事なのかもしれない。

実際、数時間だけの神隠しを経験した節子は、次の日の晩に早速両親に聞いていた。
家の地鎮祭の際、節子が素手で蛇を掴んでいたかどうかという、その真相をだ。

節子の両親は、その件をしっかりと覚えていた。
節子と蛇の会話までは聞いていなかったようだが、その事件そのものはしかと記憶していたのだ。
覚えていなかったのは、節子張本人だけだ。

上手く理解出来ないまま通り残され、周りだけがとんとんと一人歩きしている気がした。
節子は、この蛇神に巫として所望される理由を未だ把握出来ていない。
何故、こんなにもおかしな事が己にだけ起きるのか、その理由も分かっていない。

頭の中が疑問符だらけになって、節子は蛇神に聞いた。

「あの、聞きたい事が」

青年が、切れ長の瞳で振り返る。

「セツはよく私に質問があるようだね。
何だい」

蛇神の言うように、節子は彼に何かを聞くばかりだった。
それでも、その問い達を今更飲み込もうとも思えない。

「私、貴方に会うまで、ずっと夢を見ていました」
「夢?」
「毎晩毎晩、貴方に会う夢を。
でも、声だけは聞こえなかった」
「成る程」
「だから、私には何処から何処までが夢の中なのか、さっぱり分からなくて」

思った事を素直に告げる。
蛇神は「無理も無いだろうね」と呟いた。

「私に直接会うまでの夢は、恐らく蛙共の仕業だろう」
「蛙?」
「私は蛙共に命じていたんだ。
そなたを此処へ連れて来る事を。
奴らは奴らなりに、どうすればセツを難なく此処まで連れて来られるか画策したのだろう。
そして、夢を見せて暗示を掛けようとした。
けれど、私の声までは再現出来なかった。
奴らの神力も、そこまでは強くなかったという事だ」

蛇神の説明は的を射ている。
近くに蛙の姿はなくなっていたのでその真偽も確かめようもないが、間違っている風もなかった。

「声すら発さぬ私は、蛙共が見せた幻像。
そして、今そなたを抱く私は、現実のものだ」

蛇神は繋いでいた手を解き、節子の腰を抱いた。
見惚れるような端整な顔が目の前まで迫る。
余りに整い過ぎているので、此方の方が恥ずかしくなる。

「さて、現世を惜しむ時間も与えた。
今宵からは巫として、永久に私と此処で暮らそう」
「え?」
「もう家には帰れないよ。
そなたは私のものだ」

有無を言わさず笑む彼には迫力があった。
恐怖とは少々異なるようだが、孤高の威厳と自信に満ちた強さがある。

しかし、家に帰れないというのは困る。
節子は家出などした事が無い。
男と駆け落ち紛いの経験だって無い。
勿論、外泊だって無い。

それに、もう戻れないという話も初めて聞いた。
以前はそのような事など教えてくれなかった。
ただ濫りがわしい事をされ、食事を与えられた。
巫というものになれとは言われたが、それが何なのかまでは聞いていない。

その時、はっと節子の脳裏を過ぎるものがあった。
突然、若い娘が消えて居なくなる。
最近、近所で流れていた噂話にもあったではないか。

「神隠し、ですか」
「神隠し?」
「私は殺されるんですか。
それとも、食べられてしまうんですか」

己自身で口にしたのに、急に恐くなってきた。
蛇神という存在がリアルだと分かった今、それは非常に脅威だった。
声が震えた。
涙が滲みそうになった。

自分は、此処で一生を終えてしまうのだろうか。
首を噛み千切られ、四肢を切断され、血の一滴も残らず啜られるのだろうか。
巫とは、そのような生贄の事を指すのではないだろうか。

節子の恐怖心を悟った蛇神が頬に触れてきた。
冷たい指の腹。
爬虫類の体温だ。

「セツはなかなか面白い事を言う」

蛇神が眉尻を僅かに下げた。
冷たい手とは裏腹に、撫でられる感触はやけに優しい。
恐がればいいのか落ち着けばいいのか分からなくなる。

纏らない思考で、節子は言った。

「今まで居なくなった他の子も、貴方がどうにかしたんですか」
「他の子?」
「行方不明になった人達は、何処へ行ってしまったんですか」

節子は、助けて下さい、と付け足した。
涙は呑み込んだが、頭蓋にある嫌な予感は消え去ってくれない。

節子の記憶の中の生贄とは、酷い扱いを受ける立場でもあった。

食糧難の為に、生き埋めにするとか。
雨乞いの為に、湖の中に沈めるとか。
血を全て抜き取るとか。
五臓六腑を掻き出すとか。
その他にも、様々、諸々。

どうして己がそんな扱いを受けなければならないのだろうか。
この十数年の人生で、そこまで虐げられなければならないような悪事を働いた覚えは一度だって無い。
将来の安定性を買う為に、ただ日々勉強していただけだ。

近所の不良娘である伊織も、とうに殺されてしまったのだろうか。
残酷な儀式など受けて、ばらばらにされてしまったのだろうか。

節子のか細い声に、蛇神は逡巡した。
そして、ゆっくりと口を開く。

「何やら誤解しているようだから、抗弁するけれど」

頬に触れていた手が、髪の毛へと移った。
梳かすように撫でられる。

「私はセツを傷付けるつもりはないし、神隠しをする気も無い。
嘗てそのような子を受け入れた事も無い」

柔らかな青年の声色に、強張っていた身体も解れる。

「確かに何百年も昔、贄(にえ)を差し出された事は何度もある。
けれど私は、全て突き返したよ」

「突き返した?」と節子はそのまま問い返した。
蛇神は首肯する。

「そなた達人間も自身が望んでいない物を差し出されても困るだけだろう。
私とて同じだ。
そんな物を奉納されずとも、助けてやりたい者は助けるし、そうでなければ何もしない。
献上物が無いと動かない程度の神など、それを無心するしか能の無い下等な者だ」

この蛇神は、それなりに自身のポリシーというものを持っているらしい。

節子の知っている「神」といえば、寛容で、優渥で、鷹揚だった。
全ての人を助ける全知全能の存在だった。

けれど、時に残酷な昔話も聞いた。
皆を助けるべく恵を与える代わりに、生贄を甘んじて受ける。
この現代の日本でも行われている様子はないが、随分昔にはよくあった事だろう。

その悲惨な生贄に、時代錯誤とはいえ、己が宛がわれるのかと思った。
だが、蛇神はそうではないと言う。

家に帰れないと言われたのは事実だが、殺される訳でもないようだ。
最近の神隠しの噂とも関係無いらしい。

では、己は一体何をされるのだろう。
以前、彼は「巫が傍に居ると安らぐ」というような事を言っていた。
だが、本当に傍に居るだけなのだろうか。

節子の不安はぐるぐると渦を描いて大きくなった。
「とにかく中に入って話そうか」と、彼が言った。





TO BE CONTINUED.

2009.01.19

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!