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小説
第三十二話
蛇神に連れられ、節子が辿り着いたのは、出雲では無かった。
彼自身の社だ。
留守番をしていた青蛙が一番に出迎えてくれた。
一人で随分暇をしていたらしい。

黒狐も一足先に戻っていた。
欄干に腰掛け、暢気に奏でている琵琶は、童謡にも似た調べを持っていた。

殿社の一室に篭り、蛇神は中央の畳に腰を落とした。
その対面に節子も座る。

小さく嘆息し、蛇神はちらと節子を見た。

「何処か痛い所はある?」

彼は怒っている風ではなかった。
勝手に出雲から出てしまったのは節子だが、それを責めるつもりは無いらしい。

節子は神妙に正座の居住まいを直した。

「いえ、無いです」
「そう。
では、此方へおいで」

蛇神は、胡坐を掻いた自身の傍に節子を招いた。
言われたまま彼の傍に近寄ると、後ろから柔く抱き締められた。

彼の長い髪が、はらりと節子の肩に落ちた。
桜の香も、ふんわりと香る。
優しい彼の香りだ。

「さて、嫌な記憶は消してしまおうか」

蛇神の腕に己のものも重ね、彼の温もりに身体を委ねていると、予想外な事を言われた。

「覚えておく必要もないだろうからね」
「え?」
「流石に私とて、時間を過去に戻す事など出来ない。
だからせめて、刻まれてしまった記憶を消去しよう」

蛇神は、先程の出来事を節子の脳内から消してしまおうと言った。

節子は驚いた。
彼は神だから、そのような事も勿論容易いのかもしれないが、まさかそんな事を言い出されるとは思っていなかったのだ。

「待って下さい」

彼の申し出を拒否しようと、節子はすぐに振り返った。

「どうして記憶を消してしまうんですか?」
「そなたが辛い事は、忘れた方がいいに決まっている」
「辛くなんてありません」
「嘘を吐いてはいけないよ、セツ」

蛇神が節子の頬を撫でながら言う。
蒼くて深い目に捕らえられ、節子も思わず尻込みした。

「それは、まあ確かに、いい思い出では無いですけど」

嫌な記憶が過ぎった。
蛇神の言う通り、決して辛くない訳ではない。

しかし、ここは彼の言う事を甘んじて聞く訳にもいかない。

「忘れてしまっては、駄目だと思うんです」
「何故?」
「だって、私は人間です」

それだけ言えば、彼は片眉を持ち上げた。
節子の言わんとしている事が分からないのだろう。

「人間がいつまでも戦争の悲惨さを語り継ぐのは、意味があります。
決して同じ過ちを犯してはいけないという戒めです」

それは、節子が未だ小学生の時、社会の授業中に担任教諭が教授してくれた教えだった。
歴史というものは、未来を明るくさせる為にある。
だからこそ、戦争という暗い過去の過ちを忘れてはいけない。
忘れてしまっては、同じ事の繰り返しだからだと。

節子は、それも戦争に限った事では無いと思っている。
人間の日常だって同じなのだ。

過去に失敗を犯した者は、それを繰り返さないように常に反省し、記憶する。
より良い新しい未来に向かって進化出来るように、今まで起きた事をしかと覚えている。

人間は、覚えていなければならないのだ。
悲しい犠牲者を増やさない為に、記憶しておかなければならない。

誰かの幸せを守る為に、誰かを不幸にする。
裏切り、陥れる。
そんな世でも仕方が無いと慣れてしまってはいけない筈だ。

「勿論、私一人がさっきの事件を覚えていたって、世の中は何も変わらないかもしれないです。
でも、無かった事にはしたくないんです。
あの人達の悲しみも、苦しみも、きちんと覚えていたいんです」

節子一人でどうにかなる問題ではない事くらい重々承知している。
しかし、無かった事にしてはいけないものだと思った。

今の自分達は、誰かの犠牲の下にある。
その事を常に念頭に入れておかなければならない。

「忘れてしまったら、あの人達も可哀想です。
だからせめて、私が覚えていてあげたいんです」

怨霊となってしまった女の事も気掛かりだった。
人は人の記憶に残りたがる。
最初から無かった事にされて喜ぶ者など居る筈が無い。
皆の犠牲になるという悲惨な末路しか残されていなかったのだから、尚更だ。

これから先、あの怨霊となった女がどうなるのか節子には分からない。
蛇神にほとんど力も削られていたようだから、もしかしたらあのまま事切れてしまうのかもしれない。
成仏出来ればいいと思うが、それも上手くいかないかもしれない。
たとえどんな理由があろうとも、罪を犯してしまったのだから。

しかし、節子はその女の事もきちんと覚えていたいのだ。
同情という言葉が一番近いかもしれないが、それでも頭の中に残してあげたかった。

節子の言い分を黙って聞いていた蛇神は、すっと目を細めた。
咎めている風では無いが、何か考えている顔付きだ。

「正直に言えば、好きじゃない人にあんな事をされたのは、ショックですけど」

やや顔を伏せて、節子はほんの少しの本音も漏らした。

数多の農夫達に犯された事が悪夢では無いと言えば、嘘になる。
出来るものなら、その過去は消し去りたい。

だが、記憶こそ消せても、身体自体がその事実を無かった事には出来ない。
破瓜は、人ならざる者達に奪われてしまった。
それが現実だ。
余りに酷い記憶に、目を背けたくもなる。

けれど、その記憶を失ってしまえば、あの女達の悲しい想いさえも色褪せてしまう気がした。
たとえどんなに辛くても、あの事件は節子がきちんと覚えておかなければならないのだ。

節子は続けた。

「私は蛇神様の巫だから、大丈夫です。
蛇神様の元で、強くなりたいんです」

伏せていた顔を再度上げ、蛇神の顔を見て言った。
心の底にある、確固たる本音だった。

蛇神は以前、神に寵愛された者は、人ならざる者にも目を付けられがちだと言っていた。
それが本当ならば、これから先も色んな事があるだろう。
更に酷い目に遭わないとも言い切れない。

しかし、蛇神と一緒に居れば、どんな事も乗り越えられるのではないだろうか。
蛇神が居てくれるならば、前を向いていようと思えるのだ。

「神」と称される愛しい人と共に居る為には、この程度の事も乗り切らなければならない筈だ。
神の巫たる試練と思えば、諦めもつく。
今更、蛇神と離れる選択肢も無い。

節子自身、己がこんなにも前向きな人間だとは思わなかった。
どちらかというと、消極的で、影に隠れ、後ろばかりを向いているタイプだと思っていた。
それなのに、蛇神と一緒に居るだけで、こんなにも違う自分を見出す事が出来た。

節子から手を離した蛇神が、袂に仕舞っていた扇子を出した。
そして、感嘆にも似た大仰な息を吐いた。

「大した器だ」
「え?」
「まさかそなたがそこまでとは、私も思っていなかった」

出した扇で、蛇神ははたはたと顔を扇いだ。
彼の長い髪が、風でゆらゆらと揺らぐ。

節子はきょとんと目を丸くさせた。
今度は節子の方が相手の言わんとしている事に首を傾げる番だった。

「そなたは本当の巫となる才があったようだね。
驚いた」
「本当の?」

これには流石に引っ掛かりを覚えた。

本当の巫とはどういう意味だろう。
まるで、節子は巫では無いとでも言うようだ。
蛇神は、節子を巫にするつもりで迎え入れたのではなかったのだろうか。

「私は巫になるんじゃないんですか?」

蛇神に詰め寄った。

節子は未だ巫では無い。
ただそれだけならば理解出来る。
今は巫候補だ、というだけならば。

しかし、蛇神の口調は、まるで最初から巫にするつもりでは無かったようにも聞こえる。

「私は蛇神様の巫じゃないんですか?」

同じ言葉で問い詰める。

数秒睫毛を伏せてから、蛇神は目を開けた。
それから、ゆっくりと節子に視線を移した。

「まあ、そういう事になるね」

蛇神は容易に首肯した。

節子は、後頭部を鈍器で殴られたようだった。
ショックだった。
今まで、蛇神は嘘を吐いていたのだろうか。
どうしてそのような嘘を吐く必要があったのだろうか。

そもそも、巫にするつもりが無かったのならば、どうして彼は節子を迎えたのだろうか。

「どういう事ですか?
どうして私は蛇神様の巫じゃないんですか?」
「名目上、そうしていただけなんだよ」
「名目上?」

衝撃の余り、今度はくらりとした。
それを何とか踏ん張って、再度問う。

「じゃあ、私は何々ですか?
そういえば私、蛇神様を身体に下ろす方法も聞いていません。
巫って、シャマンみたいに自分の身体に神様を下ろす人の事なんですよね?
私が巫じゃないから、それも出来なかったって事ですか?」

節子の剣幕に押されて、近くにあった脇息(きょうそく)がかたりと倒れた。
蛇神が寄り掛かり、休む際に使う肘掛だ。
一緒になって鏡台も倒れてしまった。

それらに緩慢と手を遣り、元あった場所に戻しながら、蛇神も口を開いた。

「あの怪に聞いたのか」

蛇神は言葉少なく呟いた。
肝心な事は全て伏せるつもりだろうか。

かっとなった。
信頼し、尊敬していた蛇神こそが如何様師だと分かり、頭に血が上った。

「蛇神様、どういう事なんですか?
どうしてそうやって隠すばかりするんですか?」
「そなたには早いからだよ」
「何がですか?
何が早いんですか?」

蛇神は節子を子供だと言わんばかりだ。

確かに神に比べれば、一人間など小さな幼子同然だろう。
節子とて、まだ十六年しか生きていない。

しかし、蛇神に何もかも隠される程、頑是無いつもりはなかった。
好きな人の事ならば何だって知りたいし、寛容する懐も持っているつもりだった。
現に、先刻の化け物の件も、蛇神が居たから乗り越えようと思えたのだ。

節子はじりじりしながら、蛇神との間合いを詰めた。
こんなにも強く自ら彼に寄って行くのは初めての事かもしれない。
だが、引く訳にはいかなかった。

蛇神が秘そうとしている事は、自分のこれからの事でもある。
己が一体彼の何であるか分からないままで居るだなんて、御免被りたい。

「全く、セツの質問攻めには参ったね」

蛇神が眉根を寄せて笑った。
観念したような言い振りだが、隠している事を話してくれる風でも無い。

「蛇神様は、私に隠し事をし過ぎなんです。
どうして何も教えてくれないんですか?」

彼の直衣をきゅっと握って、顔を近付けた。
もし言い合いなどしていなければ、このままなし崩しに事に及びそうな密着具合だが、今はそのような雰囲気など何処にも無い。
蛇神自身も、節子に触れてくる素振りを見せない。

「今のそなたは、私の全てを受け入れる事が出来ない。
それ故だ」

ぴしゃりと突き放された。
これ以上何も話す気など無いというのだろうか。

節子は声を荒げた。

「そんな事ありません!
私、蛇神様が大蛇でも怖くありませんでした」
「その気持ちは有り難いけれど、本当にそなたには早過ぎるんだ。
良い子だから、これ以上の詮索は止しなさい」
「嫌です。
私は、蛇神様なら何だって受け入れる事が出来ます」

勢い余って、蛇神に抱き付いた。
彼も一瞬驚いたようだったが、すぐに背中に手を回してくれた。

「さっきだって、思ったんです。
あの男の人達に色々される前に、蛇神様に全て曝け出しておけば良かったって」

胸に押し付けていた顔を、ゆるゆると持ち上げる。
すぐに口付けられそうな距離まで寄れば、彼の香りが一層強くなった。

「蛇神様に全部、全部貰って欲しかったって」

随分と積極的な事を言っている自覚がある。
しかし、これも本心だ。

農夫の男達に犯されてしまうくらいならば、蛇神に身体を開いておけば良かったと思った。
それ程までに、もう今の自身は蛇神に強く惹かれているのだ。

その彼の事であれば、何を知っても受け入れる自信だってある。

「困った子だ」

蛇神が腕の力を強くさせた。
きゅっと胸に押し付けられて、ほんの少し息苦しくなった。

「私とて、無駄に傷付きたくないんだよ」

抱き締められたまま、頭を撫でられた。
彼は本当に優しい。
言葉も、手付きも、その目も、全て。

その彼が、傷付きたくないなどと弱音を吐く。
節子にはその意図とするところが分からない。

「どういう意味ですか?」

顔の位置をずらし、蛇神に問うた。
すると、抱き合っていた身体をぐいと引き離された。

「そこまで言うならば、試してみようか」

そう言われたかと思うと、いきなり床に押し倒された。
脇息がまたかたりと倒れた。

しかし、蛇神はもう調度品の事など気にしていない。

「そなたが私の事を怖いと思えば、すぐに止める。
それまでは一切止めない。
目隠しも、今回はしない。
私の全てを受け入れる覚悟があるかどうか、試してみるんだ」

仰ぎ見た蛇神は、真剣な眼差しをしていた。
冗談でこんな事をされている訳では無いのだと思った。

「いいね?」

断る事など出来ない剣幕で問われる。
節子は黙って首を縦に振る事しか出来なかった。

つい先程、大変な事があったばかりだというのに。
そう思いもしたが、乗り掛かった舟から下りられる気配は何処にも無かった。





TO BE CONTINUED.

2009.04.24

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