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小説
第三十一話
「蛇神、様」

驚きの余り、節子は声を震わせた。
女も、目を大きく見開いていた。
まさか蛇神がこんな姿になるとは思わなかったのだろう。
節子とて、予想だにしなかった。

一足先に我に返った女が、手にしていた刀を大蛇に向かって放り投げた。
その大きな身体を刺してやるつもりなのだ。

刀を投げられると分かっていたように、大蛇は雄雄しく首を振り下げた。
そして、傍に居た黄蛙をぱくりと食らってしまった。
節子が反応する間もない、一瞬の事だった。

すると、真っ白だった大蛇の表皮に、黄色の斑点が幾つも滲み出て来た。
黄蛙の皮膚と全く同じ色だ。

黄色の斑を作った大蛇に、刀が当たった。
だが、一見柔らかそうに見えた大蛇の皮膚は、金のような硬さを持っていたらしい。
勢いよく向かった刀も簡単に跳ね返され、音を立てて地に落ちてしまった。

何処から現れたのか、大蛇の後ろから緑蛙までも顔を出した。
それすら知っていたのか、大蛇は緑蛙も丸呑みにしてしまった。

今度は、大蛇の表皮に緑色の斑点が浮かび上がった。
その斑が大きくなるにつれ、辺りの木々達も忙しなく葉を揺らして騒ぎ出し始めた。
背の高い巨木はより大きく丈を伸ばし、低いものはずくりと地に崩れ折れる。

振動に撓っていた枝や幹の一部が、女目掛けて伸びて来た。
節子もその枝の一つに捕らわれたが、害はなかった。
それどころか、拘束していた縄を力任せに解いてくれた。

それとは逆に、女は枝葉に四肢を絡め取られていた。
足掻けば足掻くほど女を縛る枝は増え、より複雑になる。
たかが植物だというのに、まるで生きているように動き、女を捉えようとする。

新しい蛙が現れた。
赤蛙だった。
大蛇はまたしてもその蛙を呑みこんだ。

大蛇の身体に、赤の斑点が拡がる。
そうかと思えば、辺りの木々の葉が一斉に火を上げた。

節子達が居る雑木林内は、すぐさま大火事となった。
火の海だ。
女は木々に拘束され、火に炙られ、逃げる事もおろか、抵抗さえ出来ずにいる。

しかし、おかしな事に、節子の周りにだけは火の手が回らなかった。
目に見えない壁でも建てられているようだ。

「貴様、貴様、貴様!」

怒りに任せて、女が叫んだ。
それすらも許されないのか、木々は益々きつく女の四肢を締め付けた。
火の粉がちりちりと女の髪や着物を燃やしている。
煤で肌は黒くなっている。

地が割れ、そこから火柱が上がった。
竜が空に翔っているように、勢いがある。
マグマが噴火してしまったのだろうか。

火力で吹き飛んだ木が空に打ち上げられ、緩やかな放物線を描いて地に刺さった。
ばきりと根元から折れているものもあった。

地の亀裂が出来た到る所には、熱泥の沼が沸いている。
湯気を上げ、灼熱の色を燃やしてぼこぼこと沸騰している。

地中から迫り出した岩も、ごろごろと転がっている。
雲行きの怪しかった空からは、雷の音が轟く。

界隈は、あっという間に地獄絵図と化した。

大蛇は怒り狂っていた。
大きな身体をくねらせ、鎌首を何度も持ち上げる。
その度に辺りの惨状は酷くなっていった。
このまま化け物の主である女を食い殺そうとせんばかりだ。
寧ろ、それだけでは事足りず、地獄の業火で焼いて尚、苦しませ続けるつもりだ。

女はもがいていた。
それなのに木の枝の力は更に強くなり、女の身体を易々と宙に浮かせてしまった。

首まで絞められ、女は強制的に吊られた。
所々から出た枝の棘も皮膚に刺さり、血を流している。

暴れていた女から、徐々に力が落ちていった。
手足ががくがくと震えている。
憎しみで燃えていた眼が、ぐるりと白目を剥く。
口からは、泡が漏れている。

はっとして、節子は声を上げた。

「蛇神様、やめて下さい!」

地響きや雷、火柱の音は煩い。
耳の鼓膜を破るようだ。

だが、節子の有らん限りの力は、辛うじて大蛇に届いたらしい。
大きな首をゆらりと揺らし、節子の方を見てきた。

「お願いだから、もう止めて下さい」

節子はもう一度懇願した。
大蛇は、ただじっと節子を見るだけである。

絞首された女は、もうほとんど動いていなかった。
節子はよたよたと起き上がり、その女の傍へと寄った。
地の揺れも、些か弱まったようである。

「この人は、この人達は、本当に辛い思いをして此処まで来てしまったんです。
痛くて、苦しくて、それでも誰にも助けて貰えなくて、此処まで来てしまったんです」

女を吊るし上げている木の枝を引っ張った。
すると、今まで頑なに女を締めていた木々の枝が、すとんと落ちた。

節子には、女の苦しみが痛いほど分かっていた。
過去、生贄にされた者達の無念と憎悪を、身を持って味わったからだ。

たとえば、火の中に放り込まれ、肉が焦げる感覚。
水の中に沈められた時の息苦しさ。
生きたまま身体を痛めつけられる激痛。
沢山の男達に陵辱される屈辱。

そして、家族の悲しみ。
恋人との別れ。
数々の裏切り。

その全てが節子の心内にしかと残っていた。
だからこそ、他者を呪い、憎んでしまう気持ちも分かるのだ。

確かに、全く関係の無い人達を巻き込んで苦しめていた女の罪は重いかもしれない。
しかし、そうする事しか出来なかったその気持ちが理解出来なくはないのだ。

過去、生贄にされた者達は、どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのだと思っただろう。
運命を呪ったかもしれない。
自分を見捨てていった者達の顔が脳裏に焼き付いた筈だ。
悲しみと絶望、そして憎悪と復讐心を燃やす事しか出来なかったのだ。

そのせいで、何不自由なく暮らしている今の若い娘達さえも憎かったのかもしれない。
そして、神に優遇され、不幸とは無縁に愛されている巫など、一層煙たく映ったに違いない。

「私、分かるんです。
この人達の記憶を見てきて、その痛みが分かったんです。
責めるべきは、この人達じゃない。
本当に悪いのは、人間そのものの本質です」

こんなにも不遇な女を作り上げたのは、人間のエゴだ。
自分達大勢を救う為に、たった一人の命を省みなかった末の結果だ。
誰かを蹴落とし、自分だけが助かろうとする、浅ましくも悲しい人の性だ。

けれど、人間が誰かを陥れ、自分だけが伸し上がろうとするのは、何も古来だけに限った事ではない。
命こそ奪わなくても、そんな汚れた遣り取りは、今の世も皆行っている。
たとえば、学校で、職場で、社会の中で。
友人を、同僚を、名も知らぬ人達を。

「どうか許してあげて下さい。
確かに、逆恨みを持って、沢山の人達を傷付けてしまったかもしれないです。
いけない道に走ったかもしれないです。
でも、許してあげて下さい」

節子は女の乱れた髪を掬った。
とても乾燥していて纏りの無い、傷付いた手触りだった。

今の節子は、女を恨む事などなければ、恐ろしいと思う気持ちもない。

「誰かを憎まずにはいられなかった。
その気持ちが、私には分かるんです」

いつの間にか、節子の目には涙が滲んでいた。
他者を思って泣いたのは、これが初めてかもしれなかった。
元より涙腺が頑丈な方ではないが、こんなにも誰かに情を寄せた事は嘗て無かった。

「お願いします」

女の為に、節子は頭を垂れた。
近くでまた新しい火柱が上がり、節子の肌の上にも火の粉が落ちて来た。
熱い。
だが、振り払おうとも思わない。
女の苦しみに比べたら、こんなものなど何とも無い。

薄らと目を開けた女が、節子を見て小さく嘲笑った。

「慰みなど要らぬわ、娘」
「そんな事、言わないで下さい」

人に裏切られ、傷付き、誰かを呪う事でしか自分の存在意義を見付けられなくなっている女にとって、節子の情けはさぞ鬱陶しいものだろう。
しかし、今更見捨てる事も出来ない。

節子とて、同じ古来に生きていたら、その他の村人達と同じように、生贄一人の命を見放していたかもしれない。
それが当たり前とされた時代に居たならば、周りに流されていたかもしれない。
罪悪感に悩まされながらも、同じ過ちを繰り返した筈だ。

その環境と慣習を作り上げたのは紛れも無い、人間だ。
女をこんなにも悲しい存在に仕立て上げてしまったのも、人間だ。

気が付けば、辺りの騒々しさがやけに静かになっていた。
地鳴りが無い。
雷が止んでいる。
火柱も上がっていない。
暴れ回っていた木々も大人しくなっている。

ふと顔を上げれば、すぐ目の前に蛇神が居た。
常通りの直衣を着て、扇子を持っている。
鱗の付いた大蛇など、何処にも居ない。

「帰ろうか、セツ」

蛇神の口調は穏やかだった。
節子は涙のせいで霞んだ目を擦った。

蛇神の背後には、少年の姿をした蛙達も顔を出していた。
先程、大蛇に食われたと思っていたが、きちんと元の姿のまま立っている。

まるで全てが夢だったかのようだ。

蛇神に差し出された手を取れば、節子の汚れた身体も一度にして綺麗になった。
破かれた筈の浴衣も、元通りになって着せられていた。

もう動く事さえ諦めた女は、横たわったまま湖の方に視線を遣っていた。
その目は、遥か遠い彼方を見ていた。





TO BE CONTINUED.

2009.04.21

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