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小説
第二十九話
今度の景色は、真っ暗だった。
また身体が拘束されているようだが、苦しくは無い。
それどころか、ほんのりと温かい。
人の体温のようだ。

「どうしてうちの子が選ばれてしまったんだい」

啜り泣きがすぐ傍で聞こえた。
年のいった女性のようだ。
その声と同時、身体を拘束していた力も、きゅっと強まった。

縛られていると思ったが、誰かに抱き締められているだけだと分かった。
暗かったのも、強く抱擁されていたせいで何も見えなかっただけだ。

その節子を抱いていた相手が泣いている。

「もう止さないか」

やや離れた所で異なる声がした。
今度は疲弊しきった男性だった。

節子は、もぞもぞと身体を捩った。
一番に、自分を抱き締めている女性の肩が確認できた。
その向こうに、此方を悲しそうな目で見ている年老いた男性が居る。

此処は、小さな小屋の中のようだった。
古来の民家かもしれない。
汚れた土壁に、簡単な地炉。
沢山積み上げられた藁や薪、薄っぺらい煎餅蒲団。
着ている着物だって陳腐なものだ。

「そんな事を言ったって、納得なんて出来る訳ないじゃないか」

女性が言った。

どうやらこの二人は何かについて揉めているらしい。
節子はどうしていいか分からず、ただ黙っていた。
辺りは陰鬱とした空気が充満している。
呼吸さえも重苦しい。

女性が、節子の頭を撫でた。
その痩せ細った手は、ふるふると小刻みに震えている。

「このまま、おっかあと逃げるかい」
「止せ。
そんな事をしたら、罰が当たる。
村が干ばつで干からびてしまってもいいのか」
「この子の命と引き換えに自分が生き延びたって、何も嬉しくなんかない。
もう村なんてどうなったっていいじゃないか。
この子はどちらに転んでも死んでしまうんだよ」

女性がぼたぼたと大粒の涙を零した。
それきり、男性も何も言わなくなった。
ただ眉根を寄せ、ぐっと何かを堪えている。

節子は、己を抱き締めている女性の背にゆっくりと腕を回した。
それすらも悲しいのか、女性はまた咽び泣いた。
魂が抜けるような、咆哮に似た泣き方だった。
この女性は、そんなにも悲痛な現実を抱えているらしい。

恐らく、今の自分はこの女性の娘なのだろうな、と思った。
男性の方は、父親かもしれない。
この世界は、過去に生贄にされた娘達の記憶の一部だ。
生贄に捧げられる前の家族の別れのワンシーンなのだろう。

二人の会話から察するに、どうやら村は干ばつに襲われているらしかった。
その雨乞いの儀式に、己は生贄として選ばれているようだ。

このまま生贄にならなければ、食料不足で村の皆は死ぬ。
生贄になれば、村は助かるのかもしれないが、生贄の娘一人は死ぬ。
どちらを選んでも、生贄に選ばれた娘は死ななければならない運命なのだ。

己を抱き締めてきている女性の哀傷が、節子の胸にひしひしと染み込んで来た。
節子とて、自分の家族が何かの犠牲に殺されると決まれば、泣いて悲しむだろう。
この女性のように、「一緒に逃げよう」と言い出すかもしれない。

「嫌だよ、おっかあは。
うちの子が神の元に行くだなんて、絶対に嫌だよ」

母である女性は、節子を抱き締めたままずるずると崩れ折れた。
悲境に飲まれ、今にも事切れそうな崩れ方だった。

女性を節子から引き剥がした男性が、無言のままその妻の肩を抱いた。
そして、節子に目を遣り、また苦痛に満ちた顔をしてみせた。

男性の目の中にも、今にも零れそうな涙が滲んでいた。
きっとこの男性も、泣き崩れている女性のように大きな悲哀に苦しんでいるのだろう。
ただ、この一家の主として、村の一員として、確然たる態度を壊せないでいる。
父である以上に、一男としての尊厳とプライドのスタイルを守っている。

節子はゆるゆると腰を起こし、小屋から外へ出た。
男性も女性も、節子を止めようとはしなかった。

空には満点の星が輝いていた。
星の名など分からなかったが、幾つもの星座が各々の物語を描いて拡がっている。
周りは干からびた田ばかりだ。

その畦道を、とぼとぼと歩く。
ぬかるんだ場所など何処にもない。
水不足なのだろう。

一頻り歩くと、忙しない足音と息遣いが聞こえた。
街灯など無いので、それが誰なのかは分からない。
だが、その音を立てている主は、節子のすぐ傍で止まった。

「良かった、此処に居たのか」

ぐい、と肩を掴まれた。
月明かりの下、ぼんやりと見えたのは、年若い青年だった。
節子より二、三歳年上だろうか。
しかし、頬に付いた泥が、何処か幼くも見える。

青年は、この記憶を見せている生贄の娘の知り合いらしかった。
余りに親しげなので、恋人なのかもしれないと思った。

青年の安堵し、笑った顔は、何処か蛇神と被った。
目も鼻も、耳も口も、輪郭も背丈も、何一つ似ていない。
青年自身、決して整った顔をしている訳でもない。
だが、その柔らかい雰囲気が蛇神を思わせた。

節子の手を取り、青年は辺りをきょろきょろと見渡した。
追っ手から逃げているような態だ。

「一緒に逃げよう。
二人共に居れば、何だって出来る」

青年が口早に言った。

「神になんて遣るもんか。
贄だって、他の者がやればいいんだ」

節子の手を握る力が強くなった。
目が合えば、またふんわりと笑顔を見せてくれる。

やはりこの人は恋人なのだ、と思った。
会って間もないというのに、節子の胸の中に温かいものが込み上げた。

自分を守ろうとしてくれている人が居る事が、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
今まで、村人達に見捨てられる記憶しか見て来なかったが、中にはこんなエピソードもあったのだ。
先程の母の温もりも、未だ身体に染み付いている。

節子は青年に向かって、こくりと小さく頷いた。
このままこの青年と逃げれば、生贄である運命からも逃れられるかもしれないと思った。
一抹の希望が、星空にも負けないように瞬いた。
二人で走って、走って、走って行けば、何処かに微かな逃げ道くらいあるかもしれない。

だが、節子達が足を動かす前に、その望みは見事に打ち砕かれた。
気が付かぬ間に、二人は数人の男達に囲まれていたのだ。

「こんな夜中に、何処へ行くんだ?」

びくりと肩が震えた。
振り返る間もなく、青年が群がってきた男達の一人に殴り掛かられた。

不意を付かれた攻撃に、青年は簡単に地に伏してしまった。
その倒れた身体に乗りかかり、更に青年を殴ろうとしている者が居た。

「止めて下さい!」

節子は叫んだ。
しかし、節子の身体もすぐに捕らえられた。

女一人の力が、数人の男達に敵う筈もない。
容易に拘束された節子の目の前で、青年は無残に痛め付けられていく。
蛇神に少しでも似ていると思った優しい笑みを持った顔も、みるみる痣と血で埋まっていった。

「神に逆らったらどうなるのか、分からないのか」

男達の一人が言った。

「贄に選ばれた事は光栄なのだ」
「一人逃げ出すだなんて、村がどうなってもいいのか。
お前のせいで村が滅びるんだぞ」

また違う者達が言った。

彼らは、村の為に犠牲になれ、と言いたいらしい。
寧ろ、それこそが正当だと言っているようだ。

確かに、村の大勢の者達からすれば、生贄が逃げ出す事は許されない事だろう。
村人達全員の命を担う者が居なくなれば、村が全滅してしまうからだ。

だが、それが何だと言うのだろう。
村人達の為であれば、生贄の娘一人がどうなっても構わないと言うのだろうか。
自分達の為ならば、一人がどんなに苦しい思いを味わってもいいのだろうか。
大勢が助かれば、一人はどうなってもいいのだろうか。

「馬鹿な事を言わないで下さい」

かっとなって節子は叫んだ。

「自分達の為なら、他の人間がどうなってもいいと言うんですか」

心の内を、そのまま吐露した。
沸き起こった感情は、一気に怒りの頂点まで駆け上がった。
今まで見て来た数々の生贄の娘の無念の思いも再燃してきた。

「済まないね」と謝りながらも、命を奪った者が居た。
手を合わせて拝む者が居た。
我関せずと目を逸らしていた者が居た。

その沢山の裏切り者達の顔が、節子の頭蓋を一杯にする。

「今になって文句を零すとは」

節子の怒りとは反して、男達は到って冷ややかな目をしていた。

「そんなに生意気だと、神に嫌われるぞ」
「お前が気に入られなかったら、他の村の者達が困る。
もっと責任を持て」

言われた言葉に、くらりとした。
怒りで頭がおかしくなってしまったのだと思った。

村人達は、こんな状況下で尚、神の機嫌の心配をしている。
もし村が滅びれば、すぐに生贄のせいにしてくれるだろう。

村人達は、生贄の命を一人の命として見ていないのかもしれない。
まるで犬や猫のように、もしくはもっと小さくて価値のない虫のように軽く見ている。
自分達が生き延びる為には仕方のない犠牲だという程度しか認識していないのかもしれない。

理不尽な私刑を受けていた青年の顔は、見るも無残になっていた。
意識も手放しているようだ。
もしかしたら、打ち所が悪くて死んでしまっているのかもしれない。

男達に捕らえられている節子に、その青年の息を確認する事は出来なかった。
それどころか、傍に寄る事も出来なかった。

節子は発狂した。
全ての人間が憎かった。
虫唾が走った。
心の底から呪った。
もし自分に少しでも力があれば、この場に居る村人達を、裏切り者達を、全て殺してやりたいと思った。
怒りで目の前が真っ赤になった。

そこで、また場面が変わった。
目の前には、殴られている青年も、村人達も居なかった。
空に星空も輝いていなかった。
畦道だってない。

その代わり、節子は大きな木に背を預けて座り込んでいた。
傾斜が緩やかな山の中だった。
尻の下に敷いている苔が、ひんやりと湿っている。

服は着ておらず、手足は傷だらけだった。
喉もからからに渇いている。
どうやら此処は、更に異なる生贄の娘の記憶の中らしい。

がさがさと草を掻き分ける音が聞こえた。
其方に目を遣ると、手に薪を抱えた老婆が居るのが分かった。
山仕事でもしていたのだろうか。

老婆は、節子の姿を見て目を丸くした。
そうかと思えば、すぐに顔を顰めた。

節子は、その老婆を力なく見詰める事しか出来なかった。
少しでもいいので、水を持っていないだろうか、とも思った。
あれば分け与えて欲しい。
どうして今の己がこんなにも喉が渇いているのか分からないが、脱水を起こしかけている事は確かだった。

先程までの恨み辛みは、なまじっかに消えていた。
身体が余りに衰弱しているせいで、怒りを覚える事すら出来なくなっているらしい。

ずかずかと近付いて来た老婆が、不機嫌そうに口を開いた。

「こんな所で何をしているんだ。
お前は贄にされた筈だろうが」

「まだ生きていたのか」と老婆は続けた。
その一言で、節子は今の状況の全てを察した。

どうやら今回は、生贄にされた後、神に歓迎されなかった娘の記憶らしい。
しかも、命を絶つ事もなく、中途半端に生き残ってしまったようだ。
命からがら此処まで来たが、途中で力が入らなくなっていたのだろう。

そういえば、生贄の中には、神に迎え入れられない者も居たと聞いた。
蛇神も、生贄を受け取らない性分だと言っていた。

蛇神のように頑固な神か、或いは好き嫌いの激しい神によって迎接されなかった者達は、こうやってみすぼらしい目を見たのだろう。
実際、蛇神自身に断られた娘も居た筈だ。

「村に戻って来るんじゃないよ。
折角の贄が台無しになる」

弱りきった節子に容赦なく、老婆はぴしゃりと言った。
その老婆の背後で、ひょこりと背の高い男が現れた。
この老婆の息子だろうか。
何処か面影が似ている。

「贄が戻って来たのか?」
「ああ。
こうなれば、もう一度贄として出すしかあるまいて。
面倒だが、仕方ない」

老婆が近付いて来た。
節子を捕らえ、また生贄に出そうという目論みらしい。

節子は有らん限りの力で立ち上がった。
下肢はひょろひょろと重心を失いかけていたが、何とか最低限のバランスを保つ事が出来た。

節子は、そのまま老婆を振り切って逃げた。
何度も足は縺れそうになったが、そんな事も構わずに我武者羅に走った。

「待て!」

老婆と男の声が背に浴びせられたが、振り返らなかった。
待てと言われて待つ訳にはいかない。
再び生贄にされるという自分の行く末を知っているなら尚更、掴まる訳にはいかないのだ。

「もう嫌」

何度も転びそうになりながら、節子は零した。

「助けて」

誰に言っているのか分からなかった。
だが、誰でもいいので助けて欲しかった。

「誰か、助けて」

節子の実の父や、母や、友人の顔が浮かんだ。
そのすぐ直後に、黒狐や蛙達の顔が浮かんだ。

「誰か」

もう泣きそうだった。
全身の水分は枯れ果てているだろうに、それでも尚、涙が出そうだった。

足場の小枝に躓き、派手に地に転んだ。
逃げる事はおろか、もう立ち上がる事も出来なくなった。
口内に鉄の味がする。
目の前がぼんやりと霞んでいく。

今の節子には、もはや村人達を恨む元気も無かった。
ただ、悲しくなった。
虚しくなった。

追っ手の気配は近付いて来ている。
もう駄目だ、と思った。
またあの苦しみを味わわないといけないのだ。
今度はどんな目に遭わされるのだろうか。

何も出来ず、ただ地に臥せっている節子の手の甲に、ひらりと桜の花弁が舞い落ちてきた。
しかし、山の中に桜など咲いていない。
花らしい物も無い。

朧げな意識の中で、節子は緩慢と顔を上げた。
そして、花弁が落ちて来た元に目を遣ったが、視界が赤くなって、何も見えなくなってしまった。





TO BE CONTINUED.

2009.04.15

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