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小説
第二十七話(前編)
蛇神の姿が完全に見えなくなった。
無数の手に拘束されている身体が、ふわりと浮いた。
そうかと思えば、またきつく何かに縛られた。

「面倒な事になったのう」

節子の頭上で、暢気に喋る者が居た。
蛙だ。

節子はふと顔を上げた。

「あ、え?
黄蛙さんですか?」
「わし以外に誰が居ると思っとるんじゃ」

呼ばれた黄蛙は、常通りのんびりとしていた。
面倒だと言ったものの、その口調は心底嫌がっている風でもない。
先程、一度離れたと思っていたが、きちんと付いて来てくれていたらしい。
だが、蛇神や黒狐達は居ない。

真っ暗になっていた景色が、ぼんやりと開けてきた。
深いつんとした植物の匂いがした。
何の匂いかと辺りを見渡せば、沢山の木々に囲まれているのが分かった。
此処は雑木林の中だろうか。
日が余り入らない、鬱蒼とした緑の中だ。
鼻に衝いたのも、深緑の香りだろう。

節子は身体を縄で縛られていた。
蛇神と関わるようになってからというもの、節子はよく気を失い、よく縛られる。
人ならざるものが多々絡んでいるせいだろう。
今も、身動きが取れないようきつく拘束され、大人数の人に担がれ、何処かに運ばれているようだった。

しかし、節子と黄蛙が話していても、その人達が節子を見る事は無かった。
ただ一心不乱に黙々と何処かへ向かっている。
言葉一つも発さない。

節子はトーンを落として黄蛙に聞いた。

「此処は何処なんでしょうか」
「知らん。
じゃが、剣呑な気配がするで」

「良くない傾向じゃ」と付け足して、黄蛙は遠くを見た。

確かに、突然見知らぬ場所にワープするなど、普通の流れでは有り得ない。
辺りは、先まで居た出雲の景色ではない。
相変わらず蛇神の姿も見えない。
気配すら無い。
頼りになるのは、この小さな蛙一匹だけだ。

先刻、突然現れた中世武士の男も消えていた。
居るのは、節子と蛙、そして節子を抱えている沢山の男達だけだ。
出雲の前で屯していた集団だろうか。
皆、随分と時代錯誤な格好をしている。

薄汚れた浴衣を羽織り、草履を履いている者。
裸足のままの者。
髪を不揃いながらも結っている者。
手に鍬(くわ)を持っている者。

まるで古来の農夫達だ。
もしやタイムスリップでもしてしまったのだろうか。

節子は困惑した。
今、自分に何が起きているのか皆目分からなかったからだ。

黄蛙もきちんと把握していないようだった。
ただ、危険な気配を感じると言う。
何処か良からぬ場所に向かっている事だけは確かなのだろう。

口を塞がれている訳ではないので、大声で叫ぼうと思えば幾らでも出来た。
しかし、叫んだ所でこの状況が良くなるとも思えなかった。
蛇神が傍に居る風もないので、尚更だ。
声を聞き付けて、中世武士の男がまた顔を出す事も懸念される。
下手に騒げば、状態は更に悪化するかもしれない。

節子とは反して、黄蛙は自由に動く事が出来た。
何処も縛られていないのである。

黄蛙は、小さな身体で、節子の頭上を忙しなく跳ねていた。
だが、節子の拘束を解く気までは無いらしかった。
きょろきょろとあちこちに目を遣るばかりで、節子の事などとんと気に掛けていない。
此処が何処なのか、蛇神は何処へ消えてしまったのか、大方その二つしか考えていないのだろう。

「悲しい」

何処からともなく、か細い泣き声がした。
耳を澄まさないと上手く聞き取れないほどだ。

「どうして私が」

その声は、嗚咽を堪えた調子を持っていた。
未だ幼い、小さな少女のような声でもあった。
何処かで年端もいかない子が泣いているのだろうか。

幼子の泣き声は、少しずつ大きくなっていった。
はっきりと何を言っているのか分かるようになった頃には、その数も増え始めた。

幾つもの泣き声は、節子の背筋をずるずると逆滑りしていった。
産毛一本一本を掻き分け、肌を無作法に撫でていく。
そして、節子の耳の奥底、鼓膜の裏側まで滑りこんで来た。

その途端、小さな子らの悲痛な声は、節子の身体の全てを縛りつけ始めた。
金縛りだ。
縄で縛られたのとはまた違う緊張が走る。
不自然なまでの強い強張りが、四肢の筋肉を出鱈目に引っ張っていく。

声を聞いているだけだというのに、突然、息まで苦しくなった。
必死に酸素を吸おうとしても、肺が上手く動こうとしなかった。
このままでは、心臓さえも止まってしまう。

たかが一人の泣き声を聞いただけでここまで苦しくなるだなんて、おかしな話だ。
これではまるで、自分自身が何かに怯えて泣いているようではないか。

冷や汗が流れた。
声を聞いているだけで、恐怖とも悲愴とも取れる感情が総身を包んだ。
姿形は見えないのに、この世の何よりも禍々しい凶事に巻き込まれている気がした。
泣き声の主の苦しみが、自分の事のように感じられる。
今、何かに怯えて泣いているのが、自分なのか他人なのか分からなくなりそうだ。

しかし、周りの農夫達は無反応だった。
彼らには何も聞こえていないのだろうか。
誰一人として特別な反応を見せていない。
ただ黙々と節子を運んでいるだけだ。

「私が、私が、私が!」

少女が声を張り上げた。
声の数が更に増えた。
十か二十だろうか。
もっと多いかもしれない。
その声に飲み込まれそうになった瞬間、節子の心臓も杭を打たれたように悲鳴を上げた。

余りの痛みに、節子の視界がばちばちと弾けた。
そのすぐ直後には、金縛りも解けていた。
元より縄で縛られているので、ある程度の自由は制限されていたものの、首程度なら自由に動かせるようになった。

胸の疼きも矢庭に消えていった。
少女の声も、それきり聞こえなくなった。

今のは一体、何だったのだろうか。

「黄蛙さん」

息も切れ切れに、節子は頭上に乗っている黄蛙を呼んだ。
黄蛙は先程の少女の声を聞いていたのだろうか。
それともやはり、聞こえていたのは節子だけなのだろうか。

「随分強い怨念じゃな」

黄蛙はさらりと言った。
黄蛙にも、節子同様、何者かの声が聞こえていたらしい。

聞いていたのが自分だけでは無かった事に安堵したものの、黄蛙が明かした真実は意表を突くものだった。
信じがたい言に、節子も不安げに眉を寄せた。

「怨念、ですか?」
「ふむ、なるほど。
此処は何者かによる、恨み辛みの世界じゃな。
誰かを呪い、苦しんで死んでいった者の記憶の中じゃろう」
「ええ?」

益々、荒肝を拉ぐ事を告げられた。
節子はただただ吃驚した。
此処が誰かの記憶の中だなんて。
そんな奇怪な事を言われても、易々と信じられる筈が無い。

ぴたりと揺れが止んだ。
節子を運んでいた農夫連中が止まったのだ。
目的地なる場所に着いたらしい。

拘束されたまま、節子は地に放り出された。
土の上だった。
すぐ近くには、薄汚れた湖がある。

顔を上げれば、太い標縄(しめなわ)が幾重にも張り巡らされているのが分かった。
藁で編んだ屈強な縄だ。
その四方には、白色の紙を挟んだ幣串が立てられている。
まるでこれから儀式でも行うようだ。

その幣串の向こう、積んだ俵に腰掛けている者が居た。
中世武士の格好をした化け物の主だ。
一度姿が見えなくなったものの、こんな所に居たらしい。

「なかなか聡い蛙だ。
いかにも、その恨み辛みの主こそが、この余よ」

節子達の会話を聞いていたのか、男は緩慢と答えた。

「貴方は!」

瞠目し、節子は叫んだ。
黄蛙は黙っている。

男は、静かにくつくつと笑った。

「神の巫よ、余が生きて来た世に貴様を招待した」
「え?」
「貴様のように優遇されて神に愛される者が居るならば、余のように蔑ろにされる者も居た。
数多の男の慰み者になり、残虐に甚振られ、呆気なく殺された者の苦しみが、貴様に分かるか?
貴様のような鈍愚な娘には、それすらも分からないだろう?」

男が刀を抜いた。
そして、その刃を自身の首元に当て、ゆっくりと横に引いた。
自殺でも図ろうというのだろうか。

男が刀を動かせば、派手に破れた動脈から拡がった血液が方々に散らばった。
節子は悲鳴を上げた。
しかし、男は倒れない。
それどころか、血に染まった赤い身体を、みるみる変形させていった。

一男の腕が、細くしなやかになった。
面長の顔が、ほどよく丸くなった。
背丈も一回り小さくなった。

そして、あっという間に全ては年若い女の姿となった。

整った目鼻立ちをしているが、肌は薄汚れている。
髷も落ち、下方で簡単に結わえられているだけになっていた。
着物だけは中世武士のままだが、膨らんだ胸は、すでに女性の身体に変わってしまったのだと物語っている。

この男の正体は女だったのだろうか。
到底信じられるものではなかったが、彼の口振りからはそうとも取れる。

彼、もとい彼女は、報われなかった生贄の件を述べているようだった。
確かに、竜田姫も浅間大神も、生贄には悲しい末路を辿る者も居たと言っていた。
この女性は、その被害者の一人だというのだろうか。

「女性、だったんですか」
「ほう。
怨念の力が強過ぎて、恨んでいる対象そのものになったか」

黄蛙が感心したように言った。
節子のように然程驚いているようではないが、思う所はあるらしい。
物珍しそうに目を見開いている。

名も知らぬ女性は、物憂げに眉を顰めた。

「そうだ。
余は、無残にも散っていった贄の化身。
塊。
数々の痛みと恨みが集まり、一つの集合体となった、魂の霊」

女は、一言一句に情を込め、自身の正体を明かした。

物の怪や怨霊など言われても、節子が今まで生きて来た暮らしの中では、とんと掛け離れた存在だ。
だが、蛇神や蛙、黒狐といった人ならざる者を認めている以上、今更信じられない話でもない。

この女は、神に優遇されなかった子らが報われない思いを抱え、人を呪う思いを掻き集めて出来上がった霊なのだ。

後れ毛を払い、女は俵から立ち上がった。
そして、未だ地に転がったままの節子を見下ろしてきた。

「貴様は神の巫だろう。
神を身体に下ろす事が出来るのか?
出来るなら此処でして見せよ」
「下ろす?」
「何だ、出来ぬのか?
巫とは、そういったものだろうに」

暗に「蛇神という助けを呼んでみろ」と煽られた。
節子とて、出来るものならそうしたい。
蛇神を呼び、助けて貰えるなら、迷う事なくさっさとやっている。

しかし、どうすれば蛇神が現れるのか分からないのだ。
巫の役割の仔細を、節子はきちんと把握していない。

女のお陰で、「巫」というものが神を下ろす媒体になるらしい事は分かった。
やはり巫とは、神に認められ、その身体に神自身を入れ、託宣などを行う宗教的職能者らしい。
シャマンともいえる。

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