小説 第二十六話 「幕の内弁当を沢山重ねた御節みたいですね」 運ばれてきた豪勢な食事に、節子は横に座る蛇神に言った。 とても二人分とは思えなかった。 抱えきれない大きな重箱の中には、山菜の炊き込みご飯、天麩羅、鮎の塩焼き、根野菜の煮物、黒豆、大きな伊勢海老。 今日は何かの祝い事だろうかとさえ思ってしまうボリュームだ。 勿論、それだけでは終わらない。 重箱に入りきらなかった一品料理が、別の小皿に乗って並べられていく。 松茸の茶碗蒸し、鯛の刺身、若鶏の唐揚げ、色とりどりの香物。 庭を鑑賞しながら見られるようにと引いた敷物の上は、あっという間に食べ物ばかりで占められてしまった。 残るスペースに、漸く節子と蛇神が座れるくらいである。 彼は優しい目を向け、節子に箸を動かすよう勧めた。 「好きなだけお食べ。 何か足りないものがあるなら、別途頼めばいい」 「大丈夫です。 多過ぎるくらいですから」 「セツは少食だね。 しっかり食べないと大きくなれないよ」 「もうこれ以上大きくなったりしません。 私、十六です」 「ああ、それは尤もだね」 扇をはたはたと仰ぎ、一本取られたと蛇神は笑った。 節子と蛇神が朝食を頂くのに選んだのは、夏の庭だった。 猿田大神と浅間大神は春の庭に、竜田姫は常の宴会場へ行くと言っていた。 その神々と別れる直前まで、蛇神は昨夜の笛の音を大いにからかわれていた。 蛇神が笛を吹くのは珍しいらしい。 猿田大神に「昨晩はそんなに機嫌が良かったのか」と問われ、不快そうに眉根を寄せていた。 節子達が来た夏の庭は、また一際素晴らしかった。 夏の木陰を主とした作りとなっており、邸に近い植え込みは呉竹で、下風が涼しく吹き渡るようになっている。 高い木々が繁っているのも小さな森のようで、深く風情がある。 大きく広がっている泉は、いかにも涼しそうだ。 また、山里らしく卯の花の垣根を囲み巡らせ、近くに花橘、撫子、薔薇、牡丹などの花も植えている。 その間々に他の春の花や秋草を混ぜているのも、何とも興趣がある。 遠く東面には、敷地の一部を分けて、馬場殿も立てていた。 柵を取り囲み、池のほとりに菖蒲を植え繁らせ、世にまたとない駿馬を数頭、繋いでいる。 節子は存分に楽しんだ。 宴会場のように特別な座興など無くても、背景と食事を思いきり満喫する事が出来た。 さすが夏の庭だけあってやや暑い気もするが、その分、木陰から吹き込む風を心地良く感じる事が出来た。 しっかりと直衣を着込んでいる蛇神も、汗一つ掻いていない。 節子の前に、また新しい料理が運ばれてきた。 出雲の下働きの者達は、節子達が一体どれだけの量を食べると思っているのだろう。 蛇神は基本的に酒ばかりを口にし、食事を進めようとしない。 節子とて、大食家ではない。 これだけの料理を一体どうやって片付けるべきだろうか。 残すのは勿体無い。 だからといって、完食など出来る筈が無い。 どう足掻いても、全て胃の中に収まるとは思えない。 山のように重ねられていく料理に節子が思案していると、透渡殿から声が聞こえてきた。 「蛇神様ー」 蛇神を呼ぶ声だった。 それも、二つある。 「蛇神様、蛇神様」 「蛇神様ー」 声主は、赤蛙と黄蛙だった。 小さな身体で、ぴょんこぴょんこと懸命に跳ねて此方に向かって来ている。 昨日、大浴場で逸れて以来の再会だ。 今まで何処に行っていたのか分からないが、その二つの身体は泥に塗れていた。 お陰で、廊下には二匹の通った泥が跳ね落ちていた。 後で掃除する者が大変だろう。 蛇神も、僅かに顔を顰めている。 「私の居ない所で随分羽目を外していたようだな」 蛇神がじろりと睨めば、二匹は「ひっ」と悲鳴を上げた。 確かに、彼らは何処かで悪戯の一つや二つ楽しんでいたのかもしれない。 「蛇神様ー」 小さくなっている赤蛙と黄蛙の後ろで、また違う蛙が来た。 今度は緑蛙だ。 だが、緑蛙はこの出雲に一緒に来ていなかった筈だ。 後から追い掛けてきたのだろうか。 「蛇神様ー、やっと見付けましたで」 息を切らした緑蛙が、ふらふらしながら蛇神の傍まで跳んで来た。 赤蛙や黄蛙のように泥遊びをしていた形跡も無い。 「どうした?」 「へえ、黒狐が来ております」 緑蛙の報告に、蛇神も「黒狐が?」と問い返す。 「此処に来たという事は、例の件の調べが付いたと考えていいんだな?」 緑蛙が「へえ」と再度頷く。 「そうか、では」 蛇神はすっくと立ち上がった。 扇いでいた扇を閉じ、居住まいも正した。 それから、節子に視線を落としてきた。 「セツ、此処で待っていなさい」 「何処へ行くんですか?」 「黒狐と少し話してくる。 すぐ戻るからね」 節子が承諾する前に、蛇神はそのままさっさと去っていってしまった。 わざわざ場所を移して話すという事は、聞かれたくないような事でもあるのだろうか。 或いは、ただ心配を掛けたくないのだろうか。 残されたのは、緑蛙の登場によって怒られそびれた蛙二匹と、節子だけだった。 妙な沈黙が流れた。 緑蛙は、蛇神と一緒に黒狐の元へ向かったようである。 節子には、「蛇神の代わり」と称して泥だらけの蛙二匹を叱責する権利など無い。 だからといって、このまま何もせず蛇神の帰りを待つのも退屈だ。 景色を見るのもいいが、一人では何処か寂しい。 何もする事がなくなってしまったので、節子は食事を再開させる事にした。 赤蛙と黄蛙も、蛇神が居ないのをいい事に、のそのそと敷物の上へと上がってきた。 彼らに付いている泥は、未だ健在である。 そのせいで、綺麗な敷物が一部汚れてしまった。 「お前さんはずっと出雲に居るつもりか?」 赤蛙が節子の膝の上に乗った。 蛙姿なので然程重くないが、浴衣に泥が付着してしまった。 しかし、赤蛙は節子の膝から降りる素振りを見せようとしない。 完全に寛いでしまっている。 その姿を見て、苦笑いが浮かんだ。 「そんな、まさか」 節子は、赤蛙の問いに返した。 「私はちゃんと帰りますよ」 「まあ、お前さんのせいで茶蛙も女子の格好などさせられとるからな」 「ひっひっ、そうじゃったな」 黄蛙は笑いながら料理を口に詰め込んでいた。 小さな身体の何処にそんな大きな胃袋が隠れているのだろうかと疑いたくなる程、片っ端からぽんぽんと飲み込んでいく。 赤蛙も負けじと近くにあった物を口に放り込んでいた。 到底食べきれないと思っていた料理も、この二匹が居ればあっという間に無くなってしまいそうだ。 蛇神の使いであるこの蛙達には、多々滑稽なところがある。 口が悪くて、大食らいで、蛇神を恐れていて、変に律儀だ。 五つ子のように容姿も似ている。 仲も良いのか悪いのか分からない。 蛙同士、干物になるのは互いに心配している。 だが、女装は恰好のからかいの対象になるらしい。 この出雲から無事帰っても、節子の身代わりになっている茶蛙は当分揶揄されるのかもしれない。 それもやや可哀想な気もするが、蛙同士でやんややんやと言い合っている様は、可愛くもある。 節子は椀の汁を啜った。 アサリの澄まし汁だった。 「私、いつになったら帰れるんでしょう?」 「知らん」 節子の膝の上で蟹のサラダを頬張っている赤蛙が応えた。 蛙には歯らしい歯など無いようなので、蟹の甲羅もほとんど丸呑みだ。 身体に突き刺さったりしないのか心配になる。 黄蛙も口を開いた。 「元より蛇神様も、お前さんをずっと此処に住まわせるつもりで連れて来たんじゃろうに」 節子は「え?」と大仰に驚いた。 思ってもみない言葉だった。 そもそも、この出雲に住まうという話が本当だったとは知らなかった。 蛇神は、出雲であれば安全だと言っていた。 しかし、彼が言っていた永住の件を、節子は真剣に捉えていなかった。 蛇神は本気だったのだろうか。 出雲に来て良かったとは思う。 此処に来て、節子は蛇神をよりよく知る事が出来た。 たとえば、彼の人となりなどがそうだ。 蛇神は他の神々にとても愛されている。 舞に一目置かれ、沢山の神に親しまれている。 頑固で人一倍嫉妬深い面があるのも分かった。 身体を重ねた事に関しても、後悔などしていない。 初めての経験はやや性急で、強引なところもあったが、嫌ではなかった。 彼の存在が総身一杯に拡がった瞬間など、何とも言えない幸福感を覚えた。 己はその為だけに生まれて来たような錯覚さえ抱きそうだった。 蛇神の情愛の深さも、よく分かった。 不安の一欠けらも、上手く融解した。 出雲に来て、本当に良かったと思う。 だが、此処に永久に住むとなれば、どうだろう。 節子は眉尻を下げた。 「困ります。 私、ちゃんと帰らないと」 「出雲は安全じゃ」 「向こうには剣呑な輩が一杯居るで」 「巫のお前さんを良しと思うてないのも居る」 赤蛙も黄蛙も反論してきた。 彼らの言う事は分かる。 節子自身、身をもって一度怖い目を見たのだ。 またあの体験をするなど、真っ平御免だ。 しかし、此処にいつまでも残るのも困る。 確かに出雲は暇をしない。 美しい景色も多々ある。 蛇神も楽しませてくれるだろう。 それでも、帰らなければならないのだ。 やはり戻るべき場所は実家であるし、現世全てを捨てる覚悟も出来ていない。 「このまま蛇神と永遠に居るのもいいか」などと考えた事もあるが、それもほんの一時の感情だ。 節子が困惑していると、庭の塀の向こうで騒がしい音がした。 ピーヒャラと滑稽な笛と、忙しない太鼓、口々に喋る沢山の人の声がある。 時折、火が爆ぜる音もした。 爆竹紛いの花火でもしているのだろうか。 思案するのを一先ず止めた節子は、其方に目を遣った。 「外も随分賑やかなんですね」 節子の言葉に、蛙達もその方角へと顔を向けた。 今度は、高らかな笑い声と、頻りに手を叩く音が聞こえた。 些か喧擾な集まりのようだ。 御祭りでもしているのだろうか。 しかし、高い塀のせいでその集いは上手く見えなかった。 声の多さから沢山の人が集まっているのは確実なのだが、その仔細の様子までは分からない。 何が行われているのか気になった。 だからといって、わざわざ見に行く気までは起きなかった。 蛇神は此処に居ろと言ったのだ。 その約束を破る気は無い。 どうしても気になれば、後で蛇神と二人で見に行く事も出来る。 ここは大人しく蛇神を待った方が懸命だろうと思われた。 彼が居ない間に勝手な事をするのも憚られる。 節子は、気を取り直して箸を料理の皿に伸ばした。 「まあ、蛇神様ったら!」 掴んだ料理を口に入れようとした時、節子が待っている想い人の名が聞こえた。 「蛇神様、今度は私と」 「嫌だ、私よ」 若い女の声だ。 それも、複数居る。 「蛇神様、私もお願いします」 「蛇神様、私も」 「私も」 連呼される彼の名に、節子はぱっと腰を上げてしまった。 余りに突然立ち上がったものだから、赤蛙は節子の膝から転げ落ちてしまった。 そのまま、どぶんと頭から蛇神用の汁椀の中に突っ込んだ。 「向こうに行く気か? 塀の外は神の範疇外じゃ、おかしな奴も居るで」 黄蛙が、鯛の刺身を並べた皿の上で嗜めて来た。 「神に憧れて見当違いな逆恨みを持っとる奴も居るで。 近寄ったりするんでねえ」 汁椀から顔を上げた赤蛙も言った。 どうやら下手に動き回るなと言いたいらしい。 「でも、蛇神様は向こうに居るみたいです」 外の賑わいが一層大きくなった。 笑い声、感嘆する声、囃し立てる声も沢山入り混じっている。 蛇神の名を呼ぶ女達の声も、益々増えている。 我慢ならず、節子は声のする方に向かって行った。 勿論、塀の外に出る気は無かった。 ただ覗くだけだ。 皆で何をしているのか、少し様子を伺うだけだ。 蛇神が己を放っておいて、何故他の女と一緒に居るのか確かめるだけだ。 たとえおかしな輩が居たとしても、この出雲の敷地内に入っていれば問題ない筈だ。 神の領域内に居れば大丈夫だ。 そもそも、その塀の外に蛇神自身が出ているのだから、危険も何も無いだろう。 「勝手に外に出たら、どうなるか知らんぞ」 慌てて付いて来た黄蛙が、またしつこく忠告してきた。 「大丈夫です、出たりしません」 些かむっとして応えた。 見当違いな八つ当たりだった。 蛇神が他の女と戯れていると思っただけで、黒い感情が再び目を覚ましてしまった。 一度落ち着いた筈の嫉妬が、待っていたといわんばかりに鎌首を持ち上げた。 蛇神は、「黒狐と話す」と言っていた。 それなのに、節子の居ない所で女達に囲まれ、楽しそうな集まりに参加しているらしい。 彼は一体どういうつもりなのだろうか。 節子はずんずん進んで行ったが、黄蛙も律儀に付いて来ていた。 節子の事を心配してくれているのだろう。 小さな身体でひょっこりひょっこり追い掛けて来る。 その健気な様に罪悪感を覚え、節子は一度振り返り、黄蛙を掴んで腕に抱えた。 歩幅の無い足で早足の節子に付いて来るのは大変だったろう。 赤蛙の方は、相変わらず汁椀の中に浸かっていた。 余程その中が気に入ったのだろうか。 黄蛙を携えた節子は、塀の向こうを覗こうと背伸びした。 しかし、塀の壁は思ったより高かった。 節子の身長で背伸びしたくらいでは、何も見えない。 仕方なく、門の方まで回る事にした。 敷地内から出ずに、門から顔を出す程度であれば問題ないだろう。 敷地外へと続く門には、門番どころか人っ子一人も居なかった。 ただ外だけが数多の人数で賑わっている。 門番もその中に混じっているのだろうか。 節子は、恐る恐る門から顔を覗かせてみた。 其処には、長屋の民家が連なる往来に、沢山の人垣が出来ていた。 「あの人混みは何ですか?」 「さあのう」 余りに人がひしめき合っているので、彼らが何をしているのかさっぱり分からなかった。 ただ騒々しい声だけが聞こえた。 時折手を叩いているのは、拍手だろうか。 見世物でもしているのかもしれない。 民衆は、ちょっと足を伸ばせば届く所で集まっていた。 その中に入り、ほんの少し人の群れを掻き分けたら、騒ぎの中心も見る事が出来るだろう。 中途半端に近い場所で屯(たむろ)しているものだから、皆が何をしているのか余計気になってしまう。 だが、易々と敷地内から出る訳にはいかなかった。 黄蛙が頻りに「外に出るのは危険だ」と言うのだ。 それを無視して進んで行く程、節子も馬鹿では無い。 節子は人混みの中から蛇神の姿を見つけようと、懸命に目だけを走らせた。 蛇神は瑠璃色の髪をしているので、居ればかなり目立つ筈だ。 身長は然程高い方では無いが、存在は誰よりも際立っている。 探せば、すぐ見付かるに違いない。 そう思って一人一人確認していると、節子のすぐ傍を横切る青い影があった。 蛇神だ。 横に黒狐も連れている。 「蛇神様!」 節子は思わずその背中に声を掛けた。 しかし、声を掛けるだけで終わらず、足まで敷地の外へと出てしまっていた。 その瞬間、群れていた人が一斉に節子の方を向いた。 振り向いた者は皆、一様に目が落ち窪み、口が裂けていた。 振り返った蛇神と黒狐も、化け物のような顔をしていた。 姿だけは蛇神達そっくりなのに、表情だけが禍々しいほど奇怪だった。 これが何者かの罠だと分かった頃には、もう遅かった。 急に冷たい風が肌を撫で、辺りの民家が宵闇に包まれた。 真っ暗闇の中、誰かに強く手を掴まれた。 その弾みで、腕の中の黄蛙もぽろりと落ちてしまった。 捕らえられた身体は、人混みの更なる奥へと引き込まれていく。 何者かに嵌められてしまったのだ。 節子はもがき、抵抗した。 だが、暴れれば暴れるほど、拘束する腕は増えていった。 先程まで群れとなっていた沢山の人が、数を為して取り囲んでくる。 黄蛙が節子の足にしがみついた。 節子を護ろうとしてくれているらしい。 しかし、その小さな蛙一匹の感触も、すぐに無くなってしまった。 「セツ!」 遥か向こうで節子を呼ぶ声がした。 蛇神だった。 琵琶を抱えた黒狐も居る。 彼らは門の向こう、出雲の敷地内に居た。 顔は常通り美しい。 一つも崩れていない。 先程見た二人は、やはり偽物だったようだ。 誰かが節子をおびき寄せる為に化けていたのだ。 節子は本物の蛇神に向かって助けを求めた。 だが、手が届かない。 それどころか、どんどん距離は開いていく。 蛇神が扇を開き、何か呪文のような言葉を紡いだ。 その途端、蛇神の周りに沢山の桜の花弁が渦を描いて舞った。 現れた花弁は、節子を捕らえている人達に猛然と向かってきた。 黒狐も、琵琶の撥を携えて駆けてきた。 節子はもう一度蛇神の名を有らん限りの力で呼んだ。 早く彼の元に戻らなければ、と思った。 しかし、蛇神の名を呼ぶ声は、途中で途切れてしまった。 鳥肌が立つようなおぞましい、しゃがれた声を聞いたからだ。 「何故、貴様ばかりが優遇されるのか」 それは、以前節子を攫った化け物達の主の声だった。 「そう考えた事は、一度も無いのか?」 もう二度と会いたくないと思っていた、中世の武士姿をしていた男だ。 節子は、その男に腹をしこたま強く殴られた。 その衝撃で、肺に詰まっていた酸素は暴力的に逃げていった。 余りの痛さに視界がぼやけてしまった。 蛇神の声がまた遠くで聞こえたが、それには返す事が出来なかった。 TO BE CONTINUED. 2009.04.01 [*前へ][次へ#] [戻る] |