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小説
第二十一話
蛇神が最後の舞を舞っている最中に、猿田大神は天狗と連なって退室してしまった。

猿田大神はその風貌も去る事ながら、中身も非常にひょうきんな神だった。
ユーモリストで、人懐こくて、しかし端々に神としての威厳もあった。
蛇神とは長い付き合いだという。
節子も、機会があればまた会いたいと思った。

漸く舞を終え、席に戻って来た蛇神には、やや疲労の色が見て取れた。
未だやんややんやと持て囃される中、蛇神は大仰に溜息を吐いた。

「お疲れですか?」
「まあ、少しね」

蛇神は舞で用いていた扇子で己を扇いだ。
面倒なのか、衣装も着替えていないままだ。

彼にとって、この度の芸披露も思ってもみないただの徒労だったのだろうが、節子はそうではなかった。
彼の違った一面を見られて良かった。
今、こうやって大儀そうに扇子を仰ぐ所作一つも様になっていると思う。

改めて見ると、蛇神は本当に美しい男だった。
やや冷たい印象を受けるものの、それも外見だけだ。

その絶対的な美を持った神の巫とやらになれている己が、果報者にも思えてくる。
未だ巫としての業務をきちんと把握している訳ではないが、このように常に蛇神の傍に居て、彼と楽しい時間を過ごす事が出来るのならば、決して悪い仕事でもない。

節子は、手の拳二つ分程空けて並べられていた座布団の距離を僅かに縮めた。
ほんの少し近くなっただけで、彼の芳しい桜の香が強くなる。

節子に向かって、眉尻を下げた蛇神が微笑んだ。

「けれど、済まなかったね。
食事も未だだろう?」

目の前には、とうに冷めてしまった膳が鎮座している。
蛇神が舞台上に居る間中、節子は食事に手を付けず待っていたのだ。
しかし、別に構わなかったのだと首を左右に振って応えた。
食事などより、蛇神の舞の方が大いに魅力的だったからだ。

遅くなってしまった腹ごしらえをする為、節子は汁椀を開けた。
中から生温い湯気が上がった。
桃色の麩(ふ)が浮かぶ澄まし汁だ。

蛇神も箸を手にした。

「やはり冷えてしまったね。
温めて貰うよう頼もうか」
「いえ、このままでも大丈夫ですよ」
「そうかい?
それならばいいけれど」

手元にある香物を一つ口に入れ、彼は続ける。

「だが、そなたには堅苦しい思いをさせてしまったね。
退屈だったろう、私の下手な舞など」
「退屈だなんて!」

己も早速食事に取り掛かろうとしていたが、蛇神の言葉が予想外だった為、つい大声を上げてしまった。
急に声を荒げて否定した節子に、蛇神もきょとんと目を丸くさせた。

「あの、えっと」

恥ずかしくなって、しどろもどろと言訳する。
しかし、良い台詞が見付からない。

節子は蛇神の舞を見ている間中、退屈だと思った時はほんの一秒も無かった。
仮に一日中その姿を眺めていても飽きなかった事だろう。
それ程までに彼は壮麗だったのだ。

その美質を彼自身が否定するものだから、つい声を上げてしまった。
節子は暇な思いなどしていない。
寧ろ、十分楽しませて貰った。

猿田大神と話す事も出来た。
決してつまらない時間ではなかった。

「凄く、綺麗でした。
格好良かったし」
「女装だよ、これは」
「でも、本当に素敵でした」

拙いながらも、見惚れていた事を説明した。
蛇神は意外そうに片目を細めたが、すぐに笑ってくれた。

「有り難う、セツは優しいね」

まるで幼子を褒めるように頭を撫でられた。
蛇神は女である節子以上にたおやかな格好をしているというのに、決して厭らしさが無い。
そのお陰で、節子も引け目を感じずに済んだ。
芸術品を眺めている時のように、ただ強く惹かれた。

髪を梳いてくれる感覚が心地良くて、節子は口元を和らげた。
だが、その二人を分け入るように傍に寄って来る者が居た。

「蛇神様」

話し掛けられて、蛇神もはたと手を止めた。
蛇神の名を呼んだのは、節子達が来るまで踊っていた舞妓の娘だった。

つんと尖った目の端に乗せた赤いシャドウが婀娜な女だった。
後れ毛も何処か艶がある。
未だ子供っぽい節子とは両極端な色香だ。

舞妓は、指を付いて頭を下げた。

「先程の舞は素晴らしゅうございました。
もし良ければ、蛇神様の舞を私にも教えて下さいませんでしょうか」

礼儀正しく頭を垂れる舞妓から覗いた項に、小さな黒子があった。
艶かしい首筋だ。

節子の中で、不穏な色をした靄が鎌首を持ち上げた。
今まで感じた事の無い新しい感情だ。

節子から手を離した蛇神が、無造作に扇子を扇ぐ。
節子は、離れた彼の指を目で追った。

「別に、構わないが」

蛇神が軽く請け負う。
素っ気無い返事だが、節子の胸はちくりと痛んだ。

「有り難うございます、でしたらまた明日にでも」
「ああ、そうしよう」

舞妓が嬉しそうにはにかむ。
笑んだ際に出る笑窪が愛らしい娘だ。

また節子の胸がおかしな痛みを訴えた。
心臓の端を摘まれているようだ。

無性に蛇神の注意を引きたくなった。
先程のように頭を撫でて欲しくなった。

舞妓の娘は、立ち去る際に節子にも挨拶していった。
悪意など全く無い、礼儀正しいお辞儀だった。
それなのに、節子は同じように礼を返す事が出来なかった。
何かされた訳でもないのに、その娘を好きになれなかった。

舞妓が再び舞台上に上がり、舞を踊り始めた。
それに合わせ、楽器隊が賑やかな音楽を奏でた。
酒に酔わされている神達も、手拍子を付けて騒ぎを開始させた。
大宴会の再開である。

喧騒の中、節子はまた蛇神への距離を詰めた。
離れていた座布団は、もう完全にくっついてしまった。

「蛇神様」
「うん?」

裾を取って話し掛ける。
彼も屈託無く返答してくれた。

「私にも教えて貰いたいです」
「舞をかい?」
「え?
いえ、あの」

返された言葉に、ついどもってしまった。
深く考えずに言ってしまったものの、節子には踊りの覚えなど無い。

「それは、その」
「セツも舞を覚えたい?」
「えっと、そうじゃなくて、勉強を」

苦し紛れに出て来たものは、舞とは到底掛け離れていた。
蛇神も一呼吸置いて「勉強?」と問い返してきた。

けれど、一度口に出した以上、後には引けない。

「この私が?」
「あ、はい。
蛇神様は昔の神様だし、古文は得意かと思って。
だから教えて欲しいんです」
「まあ、出来ない事もないだろうけれど」
「じゃあ、お願いします」
「しかし、何故急に」
「教えて貰いたいんです。
蛇神様に」

語尾を強めて強請る。
これは嫉妬だ。
言いながら、節子にもその自覚が湧いてきた。

確かに、蛇神であれば古文が詳しいかもしれないと思っていた。
だが、このタイミングでその話題を出し、且つ二人の時間を設けて欲しいと頼むのは、紛れも無いジェラシーだ。

己も舞妓の子と同じように舞を習う訳にはいかない。
そもそも舞の基礎も知らないのだ。
一から学ぶには、やや無理がある。

だから、自分でも蛇神を独り占め出来る何かを考えた末、自然と出て来たのが、勉学の指導請いだった。

「セツの頼みであれば断れないよ。
たとえ私の管轄外の事であったとしてもね」

節子のもやもやした感情など露知らず、蛇神は快く承諾してくれた。
しかし、その直後にふと思い出したように継ぐ。

「では、勉強するにしても、それに必要な一式を持って来ていた?」
「あ」

蛇神の言葉にはっと我に返った。

迂闊だった。
高校の教科書など持って来ている筈が無い。
舞の代わりに取り付けた勉強の約束も、とんだ失敗だった。

節子は顔を曇らせた。
すると、すぐに彼は続けてくれた。

「では、書庫に行こうか」
「書庫?」
「そう、書庫だ」

出雲には書庫もあるのだろうか。
其処に行けば、教科書の代用となるものも置いてあるというのだろうか。

まさか神の世に人間の俗物があるとは思えない。
だが、蛇神は緩慢とした口調で説明してくれた。

「出雲には大きな書庫がある。
其処で平安巻物でも一緒に読もうか。
とりどりの絵も描かれていて、とても美しいよ」
「巻物ですか?」
「そう。
古文を読む練習になるだろう」

蛇神の提案に、節子も頷いた。
古代の巻物には、その当時の文が書かれている。
彼の言うように、それを読むのも悪くない。

何とか蛇神の注意を取り戻す事も成功したようだ。
だが、本当に幼稚じみた嫉妬をしてしまったと思う。
勢いに任せて言ったものの、恥ずかしい限りだった。
余りに浅はかなお強請りだっただろうか。

元来、このような事をわざわざ約束しなくても、蛇神は常に一緒に居てくれただろう。
舞妓と芸の稽古をする際も、傍に居るぐらいの事は出来た筈だ。

それなのに、何故、己は嫉妬などしてしまったのだろうか。

自分の事なのに、上手く分からない。
これでは本格的に恋に落ちているようだ。

節子は咄嗟に言ってしまったお強請りの訳を考えたが、答えは出て来なかった。
ただ、目の前に居る美しい人が自分以外の女性と親しげな時間を過ごすとなると、良い気がしない。
それだけは確かだった。

そもそも、この蛇神は己の事をどう思っているのだろうか。

素朴な疑問が浮かぶ。
蛇神を見ていても、その謎は解決されない。
彼の顔造りは能面のように無味に整っていて、心内を読み取りにくいのだ。

浅ましい限りだが、蛇神にとって、自身と先程の舞妓と過ごす時間の貴重さが違えばいいと思う。
嫌な負の感情だが、突如湧いてきた灰がかった情動は消えそうもない。

この醜い感情の揺れを、蛇神は知らない。
持っていた箸を陶器の箸置きに乗せ、優しく笑んでくれる。

「そなたは本当に勉学好きな娘だ」

返す言葉も無かった。
実際、勉強が無類の好物だという訳ではないが、事ある毎にそればかりを気にしている事は事実だからだ。

「たまには、私の方も見ておくれ。
そなたは私の巫となるのだから」

やや冗談めかして言う蛇神。
しかし、節子はまたしても返事が出来なかった。
つい先程、猿田大神に勢いよく宣言したというのに、もうその意志は不安定な揺れを孕んでいる。
舞妓の娘と蛇神が、目の前で演舞稽古の約束などするからだ。

せめて、蛇神こそが自分だけを見てくれたならば。

節子の中で、新しい情が生まれた。
独占欲だった。

蛇神は、本当に己の事をどう思っているのだろう。

以前も同じ事が気になった。
だが聞かなかった。

そして今回も、やはり聞けなかった。





TO BE CONTINUED.

2009.03.09

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