[携帯モード] [URL送信]

小説
第十五話
「先の所は、昔、大きな湖があった場所じゃな」

黒狐に負ぶわれた節子は「湖?」と聞き返した。

黒狐達の前を歩いている者は、少年姿になった茶蛙である。
彼は「そうじゃ」と胸を張って応えた。

夜は白く明け掛けていた。
遠くで薄らと日が覗いている。
そろそろ朝の鳥が騒ぎ始める頃だろう。
黒狐の合羽のお陰で寒くはなかったが、露出した頬には冷気が突き刺さる。

節子の家までは、後少しだった。
だが、一睡もしていない目蓋は、黒狐の身体が揺れる度に重くなる。
揺り籠に揺られているようだ。

何処かの飼い犬が節子達の姿を見て数回吠えたが、その声で住民が起きる事も無い。
静かな夜明けの中、三人はひたすら歩いて行く。

蛙の少年曰く、先程まで節子達が居た洞窟のような場所は、古来、湖があった場所だという。
確かに、水が流れる音を聞いた。
湖だった名残だと言われれば、そうかもしれないと納得出来た。

長い年月を経て、その湖も無くなってしまったのだろう。
化け物達は、その跡地ともいえる洞で暮らしていたようだ。

しかし、彼らが一体どういった訳であのような事をしていたのかは分からない。
節子同様、蛙も、黒狐もそれを把握していないようだ。

若い娘を拉致し、ただ好き勝手に陵辱する。
果たして何の理由があってそのような事をしているのかは分からないが、何らかの意図を持っているようにも見えた。

途中で去った化け物の主は、人間を毛嫌いしているようだった。
人間の浅ましさを懇々と語っていた際の顔は、節子も忘れていない。
だが、何故彼がそこまで人間を忌むのか、その理由までは聞けなかった。
問う前に、理性を残らず奪われてしまったからだ。

思い返せば、何と破廉恥な事をされてしまったのだろう。

節子は、今更ながら恥ずかしくなった。
大股を開き、見ず知らずの男に辱められた。
しかも、見た事も無い生々しい触手などで、いいように陵辱されてしまった。

蛇神にも同じように強姦されそうになったものの、そこに嫌悪があったかどうかと問われれば、些か疑問が残る。
蛇神の際も、確かに恐怖があった。
慣れない感覚に不快感もあった。
だが、蛇神自身に対する忌諱はなかったように思う。

己の覚束ない感情に、節子は頭を抱えた。
出来る事ならば、このような不可解な事件からはもう完全に身を引きたいところだ。
化け物達にも当然会いたくない。
見たくもない。

蛇神に関わらなければ、あのような怖い思いもせずに済んだのだろうか。

化け物達は、節子を見て「神のお手付きだ」と騒いでいた。
やはり、節子を狙っていたのだろうか。

しかし、伊織達が節子同様、神の手付きだとは思えない。
では、蛇神に会おうが会うまいが、節子はあの化け物達に関わる運命だったのだろうか。

謎は解けない。
だが、今回の件によって蛇神達と関係が切れるという事も無いだろう。
寧ろ、中途半端に関わってしまった以上、今更縁が切れるのも怖い。

もし、またあの化け物が現れたら。
その時に、蛇神や蛙、黒狐達が居なければ。
節子はどうなってしまうのだろう。
考えただけで恐ろしい。

勿論、蛇神達と離れ難いのは、それだけが理由ではない。
蛇神と一緒に居る時の節子には、どうも新しい感情が生まれているようだった。
果たしてそれが何なのかは分からないが、悪い心内ではなかった。

たとえば、見ていて飽きない蛙五匹。
黒狐も、つい目で追い掛けてしまう。
人間離れした、滑稽で憎めない者達。
何より、蛇神の傍に居ると、甚く落ち着くのだ。

彼の雰囲気は好ましい。
傍に居るだけで、身体が心地良い高揚感に包まれる。
彼には、頑なに閉じた心を絆す力もある。
人外故の圧倒的な美しさなど、誰しもが目を瞠るだろう。

これから自身がどうなってしまうのか分からなかったが、最早引き返せない所まで来ている気はした。
望んだ結果ではないが、仕方がない。
出来るものならば、平凡な毎日が齎してくれる微温湯に浸かっていたかったが、そうも言っていられない。

せめて、恵まれていたと思うしかないのかもしれない。
他の女達とは異なり、節子には護ってくれる神と、その下使いが居るのだ。
こうなった以上、感謝こそすれ、煙たがるのも見当違いな気がした。

たとえ、その蛇神達のせいで己が狙われたとしても、だ。
伊織達は、蛇神とは無関係な割に攫われたのだ。
蛇神達が原因で最近の珍妙な事件が起きたとは思いにくい。

では、これからどうするべきなのだろうか。

節子は、ひょいと顔を覗かせて蛙の少年を呼んだ。

「あの、茶蛙さん」

「何じゃ」というぶっきら棒な声と共に、少年は振り返った。
現代仕様の為か、野球帽を目深に被っているので、その目までは見えない。

「他の女の人達は、どうされたんですか」

節子は今、黒狐に背負われ、蛙の護衛も付いているが、その他の女達はそうではない。
節子が洞窟内から去る際、彼女達は大きな岩に半身を埋め込まれていた。
おかしな術でも掛けられたのかもしれない。

近所に住む不良娘の伊織も、動きを封じられていた。
伊織は、あのまま岩と共に命を終えさせられるのだろうか。

それはあんまりだ。

「案ずるな。
あの岩はわしの呪い。
娘らに理性が戻った頃には、岩も砕けて消える」
「でも」
「青蛙が残っておるし、緑蛙も後で駆け付ける。
二匹も居れば何とかなろう」

どうやら女達を縛っていた岩は、茶蛙の仕業らしかった。
ヒステリーを起こして暴れないよう、乃至は危険がこれ以上及ばぬよう、動きを封じるために為したのだという。

茶蛙の少年が言うように、洞窟内にはきちんと青蛙が残ってくれた。
女達が素面に戻ってから、彼女らを家に送ってくれるつもりらしい。

口が悪いくせに、蛙もなかなか律儀なようだ。

「一つ聞くが」

節子が黙っていると、今度は茶の少年の方から問い掛けが来た。

「お前さん、若い娘っ子が忽然と姿を消す事件があると、蛇神様に報告したらしいの」
「はい」
「先の洞窟内で軟禁されていた娘っ子達が、その被害者じゃろうが」

ざっと見る限りで、その娘達は十数人ほど居たように思う。
顔見知りは伊織だけだったが、どの女も若かった。
はち切れんばかりの瑞々しい肌に、濫りがわしい触手を飲み込み、あられもない声を上げていた。
目の色など、悦楽に飲まれ、完全に分別を失っていた。

助けが遅かったら、節子もそうなっていたのだろうか。
想像しただけで、ぞっとする。

「あの侍風の怪の男、お前さんの知り合いか?」

蛙の少年は、続けて問うてきた。
だが、この質問には驚いた。

「とんでもない」

節子は、勢いよく首を左右に振った。
余りに強く否定したものだから、背負ってくれている黒狐までやや驚いていた。

蛙の少年は、「ふむ」と小さく頷いた。
それから、節子達から目を離し、また前を向いて歩き始めた。

「まあ、後は蛇神様の判断に任せるしかないかの」

少年が言えば、黒狐も黙って頷いた。

ここから先は、神の采配に寄るものなのかもしれない。
剣呑な事件であればある程、事の深刻さは増す。
下使いがしゃしゃり出るものでもないのだろう。

「ところで」

顔を前に向けたまま、少年は続ける。
しかし、足がぴたりと止まった。

何やらまた深刻な話がなされるのだろうか。
少年の真剣な声に、節子も身構える。

「わしと離れた隙に攫われたという事だけは、蛇神様に内密にしておいて欲しいんじゃが」

ちょいと帽子の端を持ち上げた少年が、上目遣いで振り返る。
思ってもみない台詞に、節子はぽかんと口を開けた。

この茶蛙の少年は、節子の護衛を任されていた。
その業務を怠っている最中に節子が誘拐されたと知られれば、それなりの罰が来るのかもしれない。

実際は節子自身がその護衛を断ったのだが、拉致された事には変わり無い。
茶蛙には、それ相当のお叱りがあるのだろうか。

蛙達は、蛇神に滅法弱い。
先程も、干物にされるだの何だのと騒いでいた。

おかしくなって、節子は笑って頷いた。
蛇神と蛙達の遣り取りを見るのは面白いが、蛙達にしてみればそれも命懸けなのだろう。

遠くの方で、朝一番の鳥が第一声を発した。
朝は、すぐそこまで来ている。





TO BE CONTINUED.

2009.02.18

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!