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どれを読んでも笹塚さん
失礼夫婦(笹塚さん夫婦と弥子ちゃん)
「食べづわりってやつでねー、何か口に入れてないと気持ち悪くて」
「そうなんだ、名前さん普段小食なのに。妊娠って不思議だね」

次々とドーナツをその口の中へ放り込みながら、桂木弥子は目の前に座りちびちびと小さな口でドーナツを齧る細身の女性を見つめる。
この女性は笹塚名前。
弥子がいつも世話になっている笹塚刑事の奥さんだ。
元々、名前と弥子が知り合いで、事務所へよく顔を出していた名前と笹塚が恋に落ち、こうなるのは当然の流れ、といった感じで結婚したのだ。
そして今、名前のお腹の中には小さな命が宿っている。

「…太ると困るからある程度でストップかけてくれって名前に言われてんだけど、かけたらかけたらで怒られるんだよな。…どう思う?弥子ちゃん」

名前の隣でコーヒーを飲みながら、ふうと溜息を吐きつつたいして困っていない口ぶりで笹塚が会話に加わる。
妊婦が隣に居るので煙草は我慢しているのだろう。
口寂しさを紛らわせる為か、名前の齧りかけのドーナツを奪い、ぱくりと頬張る。

「あーっ、まだ食べたかったのに!」
「そろそろやめとけって…また医者に体重増えたって怒られるぞ」
「まだ大丈夫!だって弥子ちゃんドーナツ10個目じゃない!」
「あのな、だいたい基準が弥子ちゃんってどうなの。いつまでもストップかけらんねーじゃん」

笹塚の手からドーナツを奪い、へへんと勝ち誇ったように笑う名前の手に持つドーナツを笹塚が直接ばくりと口に入れた。残ったのは僅か一口分。
何するのよ!と怒る妻に笹塚はしれっと表情を変えることなく「母体の健康の為」と名前を真っ直ぐ見つめて言う。

「あの…私が基準て一体何のお話で?」

夫婦の微笑ましいやり取りを邪魔したくは無かったが、二人の口から自分の名前が出たことが気になった。
弥子はやっとドーナツを置き、紅茶を手に取る。

「ああ、あのね、つわりのせいで常に何か食べてなきゃ気持ち悪くなっちゃってね。でも食べ過ぎると太ってお産が大変になっちゃうから、衛士に頼んだの」
「“弥子ちゃん並に食べ続けてたら私を止めて”ってな。弥子ちゃんの胃は特殊だからって何度言っても聞かねーんだ」

目の前にある、弥子と名前が頼んだ山と詰まれたドーナツに伸ばそうとする名前の手を笹塚が止める。
うぐぐと二人、どちらもその手を戻そうとしない。
笹塚は呆れ混じりに、そしてどこか楽しげに名前の両手を拘束する。

「ああ…そーですか………」

二人は弥子から見て凄く大人だった。
年齢的なものだけでなく、考え方、仕草、雰囲気、なにもかも。
互いを尊重し合い、いつでも恋愛にのめり込み過ぎないよう、距離を開けて付き合っているようにも見えたが、それでも深い信頼と愛情を瞳の奥に沈めているのが手に取るようにわかった。
笹塚と名前は、いつか誰かとこんな風になれたら…なんて弥子や叶絵が目をハートにして憧れるような、そんな理想のカップルだったのだ。
…それなのに。

「せめてあといっこ!いっこだけでも!」
「…だめ」
「ひーとーくーちー!」
「カロリー低いものにしろっての。飴やるから」
「もう飴なんて舐め飽きた!ね、衛士…お願い」

名前が笹塚のスーツに甘えるようにすりすりと頬を寄せた。
目を潤ませ見上げれば、笹塚が珍しくウッと困ったような表情になる。
そんな二人に笑みが零れた。

結婚してから二人、こんなに柔らかくて可愛らしい空気になるだなんて思いもしなかった。
“理想の二人”が、ガラガラと崩れ去り、今までよりももっと素敵な理想が弥子の中で積みあがっていく。

「わかった。一口だけな…一口だけだぞ」
「ありがとう衛士!ところで弥子ちゃん基準の一口でもいい?」
「…だめ。それだと半分以上、下手すりゃ丸々全部食っちまう計算になるじゃねーか」
「もう!それって弥子ちゃんに失礼だよ。一口だいたい半分くらいだもんね?」
「名前さん達、まさか食事のたびにこんな会話してるんじゃないでしょうね…」

笹塚と名前は顔を見合わせて頷いてから、弥子の方を向きにっこり笑う。

「してるよ?」
「まあ、してるな」
「何この失礼夫婦!!」

弥子の突っ込みに、名前がアハハと笑う。そんな名前を見て、笹塚も頬を緩めた。
弥子は苦虫を噛み潰したような顔で再びドーナツに手を伸ばす。
こうなったらこのドーナツ全て食べてやる。
名前さんはドーナツが無くなって涙目になっちゃえ。
笹塚さんもドーナツが無くなった名前さんに八つ当たりされて困っちゃえ。
楽しげに笑う失礼夫婦をむーっとした顔で見つめながら、弥子は凄いスピードでドーナツを頬張っていった。




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