招き猫(深津) 宿題が片付かず、自分の机でしばらくうなだれる。 教科書をめくる手に力が入らなくなった私は決心をした。 他の参考書を買おう。 思い立ったら即行動、街灯を頼りに一人で書店へと歩いた。 途中で居酒屋から出てきた男性に軽く挨拶する。 この遅い時間帯、会社帰りのサラリーマンもちらほら見かける。 なるべく関わらずに行こうと少々急いだ。 書店に到着して自動ドアが開くのを待つ。 さっそく目先が店内の様子で広がり、中に入る。 入り口近くで立ち読みしている人は一瞬こちらを向いた。 すぐさま分別されたコーナーの文字を辿っていく。 頭に衝撃が走ったのは、ある事実を知った時だった。 買う予定の参考書が売り切れていたのだ。 前に来た時はあっただけに、味わう落胆の度合いが深まる。 無駄な時間を過ごした気分になり、手ぶらで戻る。 いったい何の得が私をカバーしただろうか。 早々に帰るべく横断歩道を渡った。 「また……」 ふと立ち止まる。 大通りの角を曲がった路地裏には、数ヵ月前から猫が住み着いている。 真っ白い全体にところどころ茶が混じった色の毛。 印象に残りにくいが、外が暗い場合はよく目立つ。 近づけば決まってすり寄ってきた。 「そこ、危ないピョン」 誰かが座り込む私に注意の声をかける。 喋り方が特徴的でもう一度聞いてみたくもあった。 猫によけるよう、すっと手を伸ばして狭い道の端に動かす。 「あ、どうぞ」 大丈夫という意味で、声がした後ろを振り返る。 しゃがんだままの姿勢と同じ目線に入るがっしり型な足。 鍛え上げたものと一発でわかった。 「そいつ」 「えっ」 「野良猫かピョン」 その人はなかなか去らず、猫の話に持っていく。 座って話すのも何だから、と膝に力を入れ立った。 背を預けた壁から冷えた温度が伝わり、初めて男と視線が絡まる。 早く答えろ、そう急かさない落ち着いた様子は珍しかった。 これだけの関係で終わらない気がして。 「この辺りをいつもうろついてるんです。車の通りが多い道なのに」 足元を回る仕草に促されてつい抱いた猫は、おとなしく腕の中に収まる。 人が怖くないんだな、と薄々感じた。 「どうしました?」 「目つきが君にそっくりだピョン」 「似て、ますかね」 「どっちが猫かわかんないピョン」 私は驚いたが、相手は特に表情を変えない。 褒め言葉として受け取るのは単純すぎるから、冗談と捉えておこう。 本心が謎だらけの人だ。 適当に笑ってごまかした後、いまいち反応に迷う口を開く。 「名前ないからどう呼んでいいのか。私、名前のセンスなくて」 「思いついたピョン」 話題を変えた途端に食いつきが早くなる。 何か初めから考えていたかのような返しである。 白い服の裾をつまむ動きに一瞬ドキッとした。 「その猫は今から『ピョン』だピョン」 うさぎやカエルを連想する命名。 でも、いい加減さは感じなかった。 「ピョン、だって」 名付けられた猫を呼んだ。 胸の近くで目をつぶりそうな顔がかすかに揺れる。 時間が心配になって前を見ると、すでに男の人は遠くへ向かっていた。 「待ってください!」 追いかけるため走り出す。 ピョンも彼目がけて進む私についてくる。 礼が届くかは微妙な距離。 こんなことで礼を言うなと言われればそこまで。 END. 20080425 [戻る] |