風花と残月
慟哭
手負いの獣のようだ、と。
俺を組み伏せるゼロを見てそう思った。
俺を押さえつける力は恐ろしく強かった。噛まれた首筋がヒリヒリと熱を持って、攻撃的なゼロが再び洋輔と重なった。
蘇った恐怖を抑えきれず、身体が細かく震えてしまった俺を見て、ゼロが苦い笑いを零した。
――その瞳が一瞬、揺らいだ。
すぐに伏せられてしまったが、確かにゼロの目は悲しみが宿っていた。それを見てしまった事で先程までの恐怖が霧散して、代わりにある一つの想像が頭を過ぎる。そこに根拠などなかったが、しかし限りなく確信に近かった。
肌の上に、ゼロが痕を残して行く。いくつも、数え切れない程に。僅かな痛みを伴って、古い傷跡を覆い隠すように増える。
ゼロはただ、傷跡に甘噛みと口付けだけを繰り返した。時折俺を押さえつける手に力を込め、顔を歪めて。やがて、ゼロ自身もどうしたいのか分からなくなってしまったのだろう。きつく目を閉じ、俺の胸に頭を預けて浅い呼吸を繰り返した。
「……ゼロ」
無意識のうちにその名前を呼んだ。
俺の声に反応したように息を詰め、ゼロがゆっくりと顔を上げる。一瞬の間を置いてその瞳が俺を捉え、すぐにその表情が苦しげに歪んだ。
――助けて、と言われているような気がした。
何故かは分からないが、そう感じてしまった。俺の思い上がりかもしれない。それでも、そう感じた直後から身体は勝手に動いていて、ゼロの手によって押さえつけられていた腕に力を込めると、何の抵抗もなく、そこから俺の腕が抜け出した。ゼロの手にはもう、殆ど力が籠っていなかった。
凍りついたかのように動かないゼロの、黒い前髪に触れる。俺と違って染めていないからか、痛んでいないその髪は指の間をするりと通り抜けた。
「ゼロ、」
抱きしめるように腕を回して、もう一度。今度はしっかりと意識して名前を呼んだ。
は、と息を吐いて、ゼロの呼吸が穏やかになる。
「好きにしていいよ。それでアンタが楽になるなら」
そう、出来るだけ心を落ち着かせて言葉を落としたが、随分と小さな声になってしまった。
ゼロの身体が動く。俺を押し返そうとしているのが分かったが、それをさせないよう少しだけきつく抱きしめ直した。
「……もうちょっとだけ、こうさせて」
そう言いながらも、先程からずっと身体が震えていた。
怖かった。ゼロが、ではなく、突き放されるのが。
先程、消えてくれと言われたばかりだ。ゼロが本当は俺の手なんて必要としてなくて、逆に鬱陶しがられる可能性だって残っている。お前なんて必要ない、と切り捨てられたら。そう考えるだけで震えは大きくなった。
「……な、んで」
俺の内心を知ってか知らずか、俺に抱きしめられたままでゼロが問いかける。
その声が少しだけ震えている事に気付いた瞬間、先程の直感は正しかったのだと確信する。
こんな時になっても自分の痛みには敏感だなんて、情けないにも程がある。この人は今まで何度も、優しさから俺に手を伸ばしてくれたのに。
いつだって、俺が手を振り払ってしまったあの時だってそうだった。あの時、ゼロはどんな気持ちだったんだろう。
――身体の震えが止まった。
「アンタが、寂しそうだから」
傍に居たい、と。
突き放されても、いらないと切り捨てられても、この人の傍に居たい。
今まで、俺はどうしてゼロの傍に居たいのか分からなかった。レンさんが俺とゼロが似ていると言った理由も分からなかった。
理屈に出来ない、感覚的なものだ。俺もゼロも共通して心の奥深くに根付いたものに怯えていた。分からなかったのは、今までずっと認めることを拒み続けていたからだろう。
寂しい、と。
言葉にしてしまえば酷く単純で、子供じみた感情だ。だから言葉にするのを躊躇っていた。口に出してしまえば、その感情は濁流のように押し寄せてくる。それに抗う術も、癒してくれる人もないのだと、頭のどこかで思い込んでいた。
ゼロの髪を梳くように撫でる。以前、こうすると落ち着くと言っていたのを思い出した。俺も、ゼロに撫でられると安心する。俺にとって孤独を癒してくれるのはゼロで、ゼロにとってのそれは俺だ、というのは多分自惚れじゃない。
その証拠であるかのように、ゼロの頬に一筋の涙が伝った。
泣いているゼロを見るのは初めてで、何よりも愛しいと思った。
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