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風花と残月
3.
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 がらんとした部屋の中で、レイ、と、叔母の声が聞こえた。
 それは随分と懐かしい響きで、俺の事をそう呼んでいた人物はもう居ないのだという事を思い出してしまう。
 叔母は俯いた俺に視線を向けることすらせずに言葉を続ける。

(零、ごめんね。私達とは暮らせないの)

 その台詞に、ああ、そういう事だったのか。と、妙に冷静に思う。
 この人が俺の手を握らないのも、俺と目を合わせないのも、俺を傍に置くつもりがないからだったのだ。

 気を抜けば伸ばしそうになってしまう手を握り締めて、大丈夫です、と作った笑顔で返事をすれば、叔母が安堵したように微笑んだ。
 視界に映る光景が、ゆっくりと彩度を落としていく。
 それに伴って指先が冷えていくのを感じて、世界が色を失くす前に瞼を下ろした。

*******

 夢の中で閉じた目を再び開くと、白熱灯に照らし出される見慣れた部屋へと景色が切り替わっていた。
 顔の横に敷いていた手が痺れていて、デスクの上でデザインを描きながら眠ってしまったのだということを思い出す。

 窓の外の景色は暗く、人気もない。どうやらすでに良い時間になってしまっているようだ。
 部屋のどこかで携帯が鳴っているのが分かったが、半覚醒の耳で捕らえた電子音は、俺が頭を持ち上げるのとほぼ同時に途切れてしまった。

 ここで目を覚ます度に思う。手元のライト以外に光源がなく、物の少ないこの仕事場は夢の光景によく似ている、と。
 それなのに物や明かりを増やさない理由は――俺自身、よくわからない。いい記憶なんて、あの部屋には何一つとしてないのに。

 首を鳴らしながら立ち上がる。ソファの上に放置されていた携帯が光って、メールの受信を知らせていた。
 ここ数日毎晩体を重ねている男からだろうと携帯を開く。ディスプレイに表示された時刻は十九時で、俺が思っていたよりも随分と早い。
 あの男にしては早い時間の連絡だ、と思いながらメールの差出人を見て……一瞬、自分の目を疑った。

 そこに表示されたのは、予想していた人物の名前ではなく「リョウ」の三文字。
 話したいことがある、という実に簡潔なメールだったが、俺の心をざわつかせるのには十分な内容だった。それが何なのかなんて決まりきっている。

 メールの返信画面を起動させて、わかった、とだけ打ち込んで、送信ボタンを押す前に目を閉じて溜息を吐いた。瞼の裏側で、先程の夢を思い出す。
 懐かしくも忌まわしい記憶だ。目を合わせない叔母と、冷たい部屋。レイ、と俺を呼ぶ、熱をもたない声。

 最後にあの名前で呼ばれたのはいつだったろうか。漢字の読み方だけ変えて、ゼロ、と最初にレンがそう呼び始めてから、それ以外の名前を名乗ったことがない。
 いくら呼ばれ方が変わっても本質が変わるわけではないと、そんな事は最初から分かっていたが、それでも本名に宿る暗い記憶から逃げたかった。今の名前でも、待ち受けている結果は変わらない。

 メールを送信して携帯を閉じた。
 大切な物から順番に、掌を滑り落ちていく。それを拾い集める術を、俺は知らない。
 結局、いつだって本当に欲しい温もりだけは手に入らないまま離れていくのだ。

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あきゅろす。
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