風花と残月
感情の冷える音
扉の閉まる音がして、足音が遠ざかっていく。玄関のあたりでリョウを見送ったばかりの男が、振り返りもせずに言葉を発した。
「いやー、可愛いね。なぁ?」
「……黙って聞いてりゃ勝手な事ばっか言いやがって」
「言われて困るような事なら起きて止めればよかっただろ」
どうせ気まずくて出来ないだろうとは思ってたけどな、とケラケラ笑いながらそんな事を言い、俺が横たわるソファの空いたスペースに腰を下ろした。
俺が聞いてると分かっていながらあの発言だ。質が悪いにも程がある。
「昨日あんなに怖い思いさせられてんのに、わざわざ起こしに来るなんて健気だねぇ……」
「――てめぇ、昨日起きてやがったのか」
「すぐ傍であれだけ暴れられて起きないのなんかお前くらいだっつーの」
言葉に不機嫌さを滲ませたものの、レンは怯むどころか小馬鹿にした声で反論してくる。厄介な奴に厄介な現場を見られたものだ。その上余計な世話まで焼かれて、たまった物じゃない。
実際レンの言う通り、これだけ長く他人を傍に置いたのは初めてだ。ずっと他人とは明確に線を引いてきていたはずなのに、我ながら愚かなもんだ。邪魔だと意識したことがないどころか余計な感情まで抱いてしまうなんて。
「不器用だねぇ。欲しいなら欲しいって素直に言えばいいのに」
案外両想いかもしれないよ?と苦笑しながら続けられた言葉に思わず舌打ちをした。
「うるせぇ。お前に関係ねぇだろ……つーか、何で気付いた」
「お前がリョウ君にベタ惚れな事?態度見てりゃ分かるっつーの」
どんだけ付き合い長いと思ってんだ、と続けて鼻先で笑う。態度に出したつもりはなかったのだが……相変わらず、食えない男だ。なんで昨日こんな奴と呑みに行こうだなんて思ったんだか、と後悔したところで今更何の意味もない。
横向きから仰向けになり、目の上に腕を置いて溜息をつく。すっかり覚醒してしまった頭で昨夜の出来事を思い出して、後悔が深く渦を巻いた。
酒が入っていたとはいえ、図星を突かれて感情に呑まれてしまった。あいつの体を押さえつけて、それがガタガタ震えているのに気付いた瞬間に冷静になってももう遅い。落ちつかせるために伸ばした手さえ、あいつの目には恐ろしいものに映ったのだろう。
傷付けまいと決めていたのに、あんなにも怯えさせてしまった。リョウが暴力の気配に敏感なことくらい、最初からわかっていたのに。
「……最初から手を伸ばさない方がマシだ」
唇からぽつりと零れてしまった言葉は紛れもない本音で、漏らしてしまった自分自身にもうんざりする。
こんなことをこいつに言う必要なんて欠片もなかったはずなのに。自分で思っていたよりも、リョウに怯えられた事実が堪えているようだ。
「お前、まだ空っぽなのな」
再び深い溜息をついた俺に、困ったような顔をしてそんな事を言う。
本当に厄介な男だ。普段はヘラヘラしているくせに、肝心な時には深く射抜くような言葉を吐く。だからこそ長く付き合ってくることが出来たのだろうとは思うが、今回に限ってこいつにだけは気付かれてはいけなかった。
レンの言葉に何かが深く抉られて。かろうじで絞り出した、うるせぇ、という反論の言葉さえも、この部屋の中では虚しく響いた。
「ほんっと似てるよ、お前ら。距離の測り方を知ない所とか特にな」
「……はっ、冗談」
投げやりに放ったつもりの言葉は、思ったよりも自虐的に響いた。――本当に、冗談じゃない。こんなドロドロした感情に飲み込まれそうになってる俺なんかよりも、あいつの方がよっぽど純粋だ。
触れたいなら近寄らないといつまでたっても触れられないぜ、と。呆れたような口調で、諭すようにレンが言って。胸の内側に空いた穴が、耳障りな音を立てて広がっていくような気がした。
中身がないのは今に始まったことじゃない。それこそいつからなのか分からないくらいずっと昔からだ。今更埋めようったって追いつけるわけがないだろう。
近寄ったところで、もうあいつに触れられるわけもない。怯えた表情で、伸ばした手を払いのけられるのが目に見えている。
――今更、何もかもが手遅れだ。
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