風花と残月
3.
脳内で過去の記憶がフラッシュバックする。一瞬で喉がカラカラに渇いてしまった。空気を求めて口を開いてもうまく呼吸ができない。冷たい汗が額に浮いて、こめかみを伝い落ちていく感覚に背筋が震えた。
いつだってこうだ。相手を怒らせてしまうのは俺で、そういう時は必ずこういう結果にたどり着いてしまう。俺を叩く手を生み出しているのは俺自身の行動だ。そんなこと、今更確認するまでもなくわかっていたのに、どうして同じ事を繰り返してしまうのだろう。
俺の体を押さえつける力が強くなる。ギリ、と歯を食いしばるような音が頭上から聞こえて、不意に体の上からゼロの腕が退かされた。
殴られる。そう思って目を閉じるのと同時に、諦めに似た気持ちが胸を満たす。すぐに来るだろう衝撃に備えて奥歯を噛み締めるのも、腹に力を籠めるのも、もう本能に刷り込まれた行動パターンだ。
しかし、いつまで経っても予想した衝撃が俺を襲う事はなく、かわりにゼロが息を吐いたのが分かった。ニ、三度深い呼吸を繰り返して、俺の上に覆いかぶさっていた影がゆっくりと移動していく。恐る恐る目を開くと、薄ぼんやりとした視界の中でゼロの腕がこちらに向かって伸ばされるのが見えた。
「……っ!」
ぱし、と乾いた音が部屋の中に響いた。
反射的にゼロの腕を叩いてから、しまった、と思う。見開いた視界の中で、ゼロが一瞬だけ酷く後悔したような表情をしていたから。
行き場を失くしたゼロの腕が、ゆっくりと下ろされていく。ちょうど影になってしまって、表情はもう読み取れない。
一瞬の恐怖に全身が強張って、声帯を震わせることすら出来ず。呼吸は喉をただ通過して、吐き出されるだけに終わった。情けない体はガタガタ震えたまま、指先一つ動かすことすらできやしない。
この人が俺に手を上げるわけがないのに。今までも一度だって俺を傷付けようとしたことなんてなかった。伸びてきた腕は、怯えた俺を撫でようとしたものだったんだろう。少し冷静に考えれば、そんなことすぐに分かったはずなのに。
ゼロの唇がほんの僅かに動いて、何かを言おうとしているのがわかった。
突き放されても仕方がない、嫌われても仕方がない。そうわかっていながらゼロの口からそれを聞くのが怖くて、言葉を紡ぎ出すより前にゼロを突き飛ばすようにしてソファから降た。
目を合わせることすらせずに駆け出して、仕事場の外に出て後ろ手に扉を閉める。冷たい空気の停滞する廊下に蹲り、震える肩を抱いたら涙が零れた。
どうしたらいいのか、なんて事を考えて見ても、酷く混乱した頭じゃろくな答えは導き出せない。
きっとゼロは何も言わず、何も変わらずに接してくれるのだろうけど、この家の空気は確かに変わってしまった。昨日までと同じ、穏やかな日常なんて過ごせるわけがない。
だってゼロが俺に伸ばしてくれた手を振り払ってしまった。俺が伸ばした手は振り払われたことなんて今まで一度もなかったのに、自分自身で遠ざけてしまった。拒絶される痛みも、あの人の優しさも、俺が一番良く知っていたはずなのに。
ゼロの仕事場から、床を踏みしめる音が聞こえた。今顔を合わせても、弁解の言葉すら思いつかない。頼むからこのまま眠ってくれ、とそう願う。
俺の願い通り、ゼロが仕事場から出てくる気配はなく。それに少しほっとしている自分に対する嫌悪と罪悪感で、胸がギチギチと軋んだ音を立てた。
俺はこうやって、逃げてばかりだ。
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