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風花と残月
抜殻と牙

 その日の夜、まもなく日付を越えるという時間になってもゼロが帰宅する気配はなく、秒針の進むカチカチという耳障りな音が俺の苛立ちを煽った。
 フラッと居なくなるのは良くあることだが、いつもならもう帰ってきてもおかしくない時刻だ。
 今日は帰ってこないのかも知れないし先に眠ってしまおうとベッドに潜り込んだものの、気になって寝付くことが出来ず、結局はリビングのソファでくつろぎながらゼロを待つといういつものパターンに突入してしまった。

 子供じゃあるまいし、遅くなるなら連絡しろとまでは言わないが、せめて連絡をつけられる状況にしておくのが大人ってものだと思う。仕事の連絡だって入ってくるだろうに、持ち歩かない携帯なんて何の意味も無いじゃないか。

 そう我ながら自分勝手な苛立ちを募らせ、今度携帯を首からぶら下げるストラップでも買ってきてやろうという結論に至った頃、階下からドアの開閉する音が聞こえてきた。バタバタという足音が続いて、ああやっと帰ってきたのか、と思う。
 すぐに上がってくるだろうと思ったのだがその気配はなく。顔を見ないことには安心して眠ることも出来ず、きっとまたクソガキ、とゼロにバカにされるだろう事を予想しながらも階段を下り、そっと仕事場の扉を開けた。

 電気が消え、デスク上のライトだけを灯した薄暗い部屋の中、ゼロはソファの上に座って煙草を吸っていた。

「起きてたのか」
「うん。遅かったね……っていうかレンさん?」

 背凭れの倒されたソファの空いたスペースに見覚えのある派手な頭の持ち主が寝転がっている。こんな時間に居るなんて珍しい、と驚いていると、ゼロが面倒臭そうに頭を書きながら言葉を返す。

「ああ、二人で飲んでたんだけどな。飲ませすぎた」

 こいつ酒弱いんだよ、と気だるげな声で続ける。意外だ、と思いながら近寄ってレンさんを覗き見ると、瞼を閉じたその頬が赤い。おまけに先ほどから僅かにアルコールが香っていて。レンさんが弱いとかいう以前に、かなりの量を飲んだだろう事は明白だった。

「……酒くせぇ」
「うるせぇクソガキ」

 嗅ぎ慣れない酒の匂いに対して思わず漏れてしまった俺の言葉に、一瞬だけゼロが顔をしかめた。かと思えば唐突に腕を引かれて、思い切りバランスを崩してしまった。

「ちょ、何すんだよ!」
「もっと酒臭くしてやるよ」
「ふざけんな酔っ払い!離せ!」
「嫌だね」

 倒れこんだ腕の中で、あんたは子供か、と声に出さずに突っ込みを入れた。思ったより酔ってやがる。
 もともと抱きつき癖があるとは思っていたけど、どうやら酒が入ると一層激しくなるようだ。ゼロの膝の上に座るような形のまま抱き込まれ、酒臭さにじたばたと暴れるも開放される気配はない。
「力で敵うわけねぇんだから諦めろ」という笑い混じりの声が耳元で聞こえる。俺を抱きしめる腕の力が少しだけ強くなった瞬間、ふといつもの香水が鼻先をかすめた。

「……随分大人しいな」

 思わず抵抗をやめた俺に、ゼロが不思議そうな声で言う。それには返事をせずに、力を抜いて体を預けた。そのまま、お帰り、と今更のように伝えれば、少し間が空いてからただいま、と。いつもより少しだけ優しい声で返されて、安堵の息を吐く。
  突然居なくなった母親のように、ゼロもこのまま帰ってこなくなってしまうのではないか、と。ありえないとわかっていながらも、頭のどこかでそんな事を考えていた。
 酔っていようがなんだろうが、こうやって帰ってきたことに心底安心しているのは事実だ。

「寂しかったのか、クソガキ」
「……うるさい、酔っ払い」

 かわいくねぇな、と耳元でクツクツ笑う声が聞こえる。
 気付けば俺を抱きしめていた腕の力は弱まり、優しく髪を梳く手の心地良さに目を閉じた。

「なあ、ゼロ」
「ん?」

 携帯くらい持ち歩きなよ。そう言おうとしてあることに気付き、思わず口を噤んだ。
 ……図々しいにも程がある。
 ゼロの好意でここに置いてもらっているだけの、居候でしかない俺がそんな事を言う筋合いはないのだ。俺はゼロの家族でも何でもない。同じ家に居るせいで忘れてしまいがちだけど、赤の他人だ。ゼロの行動に口を出す権利なんてありはしない。

「何だよ」
「……なんでもない」

 ゼロの体に腕を回してしがみ付いた。頭を撫でる手と触れた体の温もりが気持ち良い。
 こうやって安心させてもらえるだけでも十分じゃないか。踏み込みすぎてはいけない、これ以上甘えるなと自分に言い聞かせた。



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