風花と残月
5.
「床座ってっと体冷えるぞ」
ゼロがそう言いながら横たえていた体を起こし、ここに座れというようにソファの上に空いたスペースをぽんと叩く。
相変わらず、誤魔化すのがうまい。
突然手を解いた行為に対する違和感を微塵も感じさせず、先ほど確かに揺らいだはずの目にも、既にその影すら残っていない。
促されるままゼロの横に腰を下ろし、その体に寄りかかって小さく息を吐けば、「どうせ嫌な夢でも見たんだろ」と言って笑った。
なんでそんな風に笑えるんだろう。自分だっていつも悪い夢にうなされてる癖に。
暗い部分を上手く隠して、いつだって穏やかに笑う。あの夜の出来事がなければ、この人の中に深く根を張った重たい影に気付くことすらできなかっただろう。
「寝れるまで一緒に居てやろうか?」
柔らかい声が俺に問うけど、頭を横に振って大丈夫だと伝えた。
俺はもう眠れる。さっきまでのあんたの温もりだけで十分すぎる程安心してしまった。
それよりも、普段なら頭を撫でるはずの手が伸びてこないことが切ない。冷えた手を隠したまま、どうしてそんなに優しいことがいえるのだろう。
ゼロは弱さを見せようとしないけど、その手を握って温めてあげることくらいは俺にだってできるのに。ゼロが手を伸ばしてこないのは、俺の方が弱く見えるからだろうか。
俺が寝れないから一緒に居て欲しいんじゃなくて、この人が悪い夢をみないように傍に居たい、と強く思うのに、それを伝えることが出来ない。
「大丈夫ならベッド行けよ。明日もバイトなんだろ」
ゼロはそう言って立ち上がり「俺ももう降りるわ」と続けた。
これ以上踏み込むな、とでもいうように笑う。俺の領域にはズカズカと上がりこんでくる癖に。
見えない線を引かれた気分だ。
何か言わなきゃ、と思うのに、先ほどから言葉が喉の奥で引っかかって出てこない。
そうやって俺がまごついている間にドアノブに手をかけたゼロが振り返る。
「おやすみ」
そう笑った顔は何ともいえない色を湛えていて、それに驚いた俺が挨拶を返すより先に扉が閉められてしまった。
階段を下る音が少しずつ遠くなって、耳が痛くなるほどの静寂が部屋に満ちる。先ほどまでゼロがいたソファの上で横になって、そこに僅かに残る温もりに思いを馳せた。
ゼロの手を自分から掴んで温めてあげたいと思ったのに、それもできなかった。
振り払われるかも知れないというのもあったが、負の面を見るのが怖い、という気持ちが何よりも勝った。この人を蝕む影の正体を知りたくないと思ったのだ。
……なんでこんなに弱いんだ。すぐ手の届くところにいる恩人が見えない何かに怯えていると気付きながら、自分自身の痛みに敏感な俺は結局何もして上げられない。
恐怖と息苦しさと自己嫌悪、さまざまな感情が入り混じって、やがてそれが後悔に変わる。
こうやってゼロの中にある影は少しずつ大きくなっていくんだろう。そう思ったらどうしようもなく泣きたくなった。
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