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風花と残月
3.
 


 
 一人で食事を終え、風呂に入ってからなんとなく雑誌を読んだりしていたのだが、やはりというかなんというか、日付が変わる時間になってもゼロが上がってくることはなかった。きっと、もう下で俺が名前も知らないような相手と眠っているのだろう。

 俺も早く眠りたいのだが、ここのところずっと寝つきが悪い。ベッドの上でごろごろと寝返りを繰り返していると、自分の両腕が視界に入った。
 少し前まで傷の残っていた腕は、もう大分綺麗になった。ガリガリで骨の浮いていた拳や体も肉付きが良くなったし首の傷だって瘡蓋さえ残っていない。
 こうやって体の傷は少しずつ癒えていくのに、過去の記憶が心の中に深く根を張っている。
 最近、寝入り際にまで親父と洋輔の影がちらつくことが増えた。今日のように何かのきっかけで過去のことを思い出してしまうともうだめだ。今にも蹴り起こされるのではないかという思いが胸を占めて、安心して眠ることができない。

 いつまでたっても枯れる気配のない恐怖が次から次へと涌いて来て、傍にあった毛布をぎゅっと握り締めた。
 あるはずのない影に怯えてしまうのは、ここ数日一人で眠る日が続いているからだろうか。
 少し前までゼロと背中合わせに眠っていたせいか、さして大きくないはずのベッドが妙に広く感じる。
 不安で眠れないときでも、こっそりと寝返りを打ってゼロの背に顔を埋めれば安心して眠りに付くことができたし、ゼロもそんな俺の行動に気付かないふりをしてくれていた。

 ゼロに甘えてばかりではいけないとわかっているのに、不安と一緒に涙が零れる。
 この家に住ませてもらうようになってから、孤独に対する恐怖が大きくなってしまった。どれだけ自分がゼロに救われているのか、どれだけ頼り切っていたのかを今更になって実感する。
 いつの間に、こんなに弱くなったのだろう。
 枕に顔を押し付けて涙を拭う。視線を動かせば、カーテンを閉め忘れた窓から冷たい月の光が差し込んでいて、それに少しだけほっとした。
 明日も朝からバイトがある。こんな歳にもなって小さな物音や夢に怯えていてどうすると自分に言い聞かせて、不安を払うように頭を振る。
 ぎゅっと目を瞑り、悪い夢をみませんようにと祈りながら眠りについた。



 それから、どれくらいの時間が経っただろう。ボロボロと泣きながら目を覚ました。
 心臓が壊れるんじゃないかと思うほどバクバクと脈打っている。
 親父の夢を見てしまった。

 抱きしめたままだった毛布に顔を埋め、背中を丸めてぎゅっと目を瞑る。
 閉じた瞼の内側で、夢の中の荒い息遣いや体を弄るリアルな手の感触が蘇った。ガチガチと奥歯のぶつかり合う音がして、それでやっと自分が震えていることに気付く。

 何でこんなに不安定になっているんだろう。今まで寝つけない事はあっても、夢で泣きながら目を覚ますなんて事は初めてだ。

 枕もとの明かりをつけ、歪んだ視界で見た時計は夜中の二時を指していた。ベッドに潜ってから、さほど時間は経っていない。
 こんな時間に起きてしまうなんて最悪だ。きっともう眠れない。
 しゃくりあげながら何度か深呼吸をして、服の袖で濡れた頬を拭い、乾いた喉を潤そうとベッドから降りてリビングに繋がる扉へと向かった。冷えた床から体を這うように冷気が上がってきて、その感覚にぶるりと身を奮わせる。

 扉を開け、水を飲むためにキッチンへ向かおうとした時に途中、ぎしりとソファの軋む音がした。驚いてそちらを見れば、下に居るはずのゼロがソファの上で眠っている。
 足音を立てないようにしてこっそりと近寄ると、その髪の毛が少し湿って居ることに気が付いた。毛布も何もかけていないし、きっと、シャワーを浴びてそのまま眠ってしまったんだろう。
 何かに誘われるように、ソファ前の床に腰を下ろす。そのまま、仰向けに転がるゼロの胸に、頭を預けるように寄りかかって軽く息を吐いた。鼓膜に響くドクドクという音が心地良い。

 ……このままなら眠れそうだけど、きっと起きたらまた下に降りるんだろう。起こしてやらないとと思いつつも、あと少しだけ、と情けない自分が言い訳をする。
 嫌な夢を見たせいだろうか。甘えていてはいけないとわかっているのに、喉の奥で笑う低い声や、癖のように俺の頭を撫でる手の感触が無性に恋しくて離れられない。
 
 寄りかかったゼロの体が僅かに震えて、微かな呻きが聞こえる。起こしてしまったかと顔を上げた瞬間、頭の上に僅かな重みを感じた。
 無意識なのだろうか。俺の頭を撫でたかと思えば、胸に押し付けるように頭を抱きこまれてしまった。服越しに伝わる鼓動と温もりで妙に安心して、ゆっくりと目を閉じる。
 穏やかに上下する胸に頭を預けたまま、そういえばゼロもたまにうなされているなと思い出す。決して自分から言うことはないけど、夜中に飛び起きて荒い息をつき、こっそりとベッドから出て、下の仕事場に降りるのを俺は知っている。ゼロも一人の人間で、俺と同じように弱い部分を持ち合わせているのだ。
 雪の降る日はそれが顕著になると気付いたのは、ほんの数日前のことだ。ゼロが風邪で寝込む前日、夜中に物音で眼が覚めて、ここで突然抱き寄せられた。何でもないと言ったゼロの、俺に触れる手は驚く程に冷えていて、その体が微かに震えていたのも気のせいではないはずだ。
 頭を撫でれば「落ち着く」と返されて、余裕なように見えるこの人も見えない何かに怯えているのだ、と思った。

 ゼロはあまりそういう姿を見せようとしないけど、今考えてみれば行動の端々に見え隠れしているような気がする。俺が昔の自分に似ている、と言った時の悲しそうな笑いも、「お帰り」と声をかけた時の少しほっとしたような顔もそう考えれば合点が行く。
 俺がこの人の手や声や温もりに安心する理由も、そういう部分で親近感を覚えているからだろうか。


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あきゅろす。
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