風花と残月
古色蒼然
午前6時、明け方の薄明るい部屋で目が覚めた。こんな時間にアラームなしで起き上がるなんて、普段の俺ではありえないことだ。時計を読み間違えたかとも思ったが、眠りについたのが早かったせいだと気付く。
寝起きで多少頭が重いが、だるかった体は軽くなり、念のためにと熱を測れば既に平熱に戻っていた。我ながら、タフな体をしている。
珍しく覚醒の早い思考に驚きながら、ベッドの上に起き上がり、体を伸ばしている途中でふと、シャワーも浴びずに眠ってしまった事を思い出す。
大分寝汗もかいたようだし、たまには朝から風呂に入るのも悪くないかと、着替えを片手に寝室を出た。
リビングのソファの上で、毛布の塊がもぞもぞと動くのが目に入ってそちらに向かえば、案の定リョウがそこで寝息を立てていた。
ベッドに運んでやろうかとも思ったが、変に動かして起こしてしまうよりは、このままいつもの時間まで寝かせておいたほうが良いだろう。
あまりにも無防備な寝姿にむくむくと悪戯心がわいてきて、人差し指で頬を突いて、軽く抓る。
眉をしかめ、もごもごと言葉にならない寝言を呟くのが面白くて、思わず噴き出しそうになり、慌てて自分の手で口を押さえて間抜けな寝顔に声を噛み殺して笑う。そうやってひとしきり笑ってからリョウの頭を軽く撫で、本来の目的である浴室へと向かった。
◇
シャワーを済ませてリビングに戻ると、異常に腹が減っているということに気がついた。よくよく考えれば、昨日の昼以降は水とコーヒー以外何も口にしていない。
確か粥を作ったと言っていたはずだ…とコンロを覗き、片手鍋の中にあったそれと、コーヒーを淹れるためのポットを火にかけ、リョウが眠るソファの肘掛に腰を下ろした。
ふと昨夜のことを思い出して、自分自身の変化を改めて感じる。
たかだか風邪を引いたくらいであんな極端に心配されたのは初めてだし、それを鬱陶しいと思わない自分にも驚いた。泣き出しそうなガキなんて、今までなら面倒なものだとしか思っていなかったはずだ。
面倒どころか、可愛いとさえ思ってしまったということは、自分で考える以上に情が移っている証拠だろう。
安心しきった寝顔を見つめて、穏やかだな、と思う。そしてこの穏やかな時間がずっと続けばいいのにとも。
自分の下らない行動で、こいつを怯えさせてしまうのではないかと、昨日は一日中そればかりを気にしていた。リョウのこれまでの経験を知っていながら、衝動を抑えることができなかった自分に苛立ちを覚えもしたし、これから先似たような状況に陥った時はどうしたら良いだろうかと悩みもした。未だにその答えは出ないままだ。
それでも昨夜の不安げな顔を思い出すと、できるだけ近いところに居たいと思う。
結局のところ、俺はこいつに対してはとことん弱いらしい。幼い頃の自分を投影しているせいだろうか。なんとも身勝手な考えだ。
「ん……」
取りとめもない思考の海を漂っていると、毛布に包まっていたリョウが微かに声を発した。横向きの体勢から寝返りを打って仰向けになり、うっすらと目を開ける。
「おはよう、クソガキ」
普段はあまり見ることのない寝起きのぼんやりとした表情に、自然と笑みが漏れる。肘掛に座ったままその前髪を掻き揚げてやれば、気持ちよさそうに目を閉じてから小さく欠伸をして口を開いた。
「……具合、もういいの?」
「おう」
ごしごしと目を擦りながら言うのを、こいつも寝起きはこんなもんなんだな、と新鮮な気持ちで眺める。普段は俺よりリョウの方が早く起きるから、こんな姿を見る事はできない。
寝転がったまま軽く体を伸ばして、ゆっくりと起き上がる。それから猫が水を払うような動作で二、三度頭を振って、もう一度、今度は大きな伸びをした。
「熱は?」
「測ったけど平熱だった」
「よかった」
心底安心したように笑う顔を見て、形容しがたい感情が胸を満たしていく。
「リョウ」
「ん?……っていうかゼロ、鍋の火強すぎ。焦げるだろ」
呼びかけに応えた後、一瞬の間をおいてパタパタとコンロに向かい、「焦げたら洗うの大変なんだからな」と火を弱める。 その後姿を見ながら、突然涌いた感情に戸惑いを覚えた。
「さっきなんか言おうとしてなかった?」
「いや……何でもねぇ」
鍋の横で吹き零れたポットの火を止め、コーヒーを淹れ始めたリョウに言葉を返し、先程どうしてその名前を呼んだのだろうかと考える。
二人分のカップを手にリョウが戻ってくる頃になっても答えは見えず、俺は思考を放棄する。
コーヒーを受け取って啜り、よくわからない感情の燃えさしだけが胸の内に残った。
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