風花と残月
5.
立っていたリョウが膝をついたのだろう。ソファの右側が少しだけ沈んだ。
「ちょ、コーヒー零れるってば」
未だに何の危機感も抱いていないらしい声が聞こえるが、自制心が働かない。まずいと頭の隅では認識しているのに、他人の熱が欲しいと本能が叫ぶ。
それに抗うことができず、抱き寄せた腰から服の中に手を差し入れて、直に触れた肌の温度で頭の芯が痺れるような感覚を覚えた。
いっそ、どうにでもなればいい。
そう思って僅かに残った理性を手放しかけた、そのギリギリの瞬間、不意に耳元で声が聞こえた。
「ゼロ、どうしたんだよ」
その声と頭に回された腕で、リョウに抱きしめられているのだと自覚して、失いかけていた正気が戻ってくる。
かろうじで残っていた理性の糸を繋ぎとめ、リョウの体に回していた腕を解いた
「っ……なんでも、ねぇ」
呻くようにその言葉を搾り出して軽く瞼を閉じれば、リョウの手が遠慮がちに俺の髪を梳き始めて、その感覚に小さく息を吐いた。
もう一度細い体を抱き寄せ、鼻先に当たるリョウの首元に顔を埋めると、先程までの激情が徐々に鎮まって行くのがわかる。
「それ、すげえ落ち着く」
他人の手はこんなにも心地良い物なのだと、今初めて気が付いた。
いくらか冷静になってきた頭で、自分が何をしようとしていたのかを思い出して、嫌な汗が体を伝う。こいつに手を出そうとするなんて、いくらなんでも余裕がなさすぎる。
「……大丈夫?」
「ああ…悪い」
すぐ傍で心配するような声が聞こえて、リョウを抱きしめたままだった事を思い出す。いまだに俺の頭を撫で続ける体を引き剥がしながら、離れていく体温に少しだけ寂しさを覚えた。
リョウがまた何かを言おうとしたのが分かったが、それを遮って俺の携帯の着信音が鳴り響く。それを手に取り、ディスプレイに表示された男の名前を見て、ソファから立ち上がった。
「……俺、下降りるから、お前はもう寝な」
廊下に繋がるドアに向かいながら、リョウの顔を見ないようにして言葉を放つ。正直、このタイミングで携帯が鳴ってくれて助かった。
「おい、ゼロ!」
「……起こして悪かった。おやすみ」
慌てて俺を追ってきたリョウの頭を撫で、一方的に言葉を吐いて、ドアを閉める。
かなり落ち着いたとはいえ、まだ胸の内で燻り続けているものがある。相変わらず手は冷たいままだし、リョウは警戒心がなさ過ぎる。平常時であれば何の問題もないが、今同じ空間にいたら、またいつ手を出してしまうかも分からない。
溜息をつき、階段を下りながら俺の手の中で鳴り続けている携帯の通話ボタンを押して電話に出た。二言三言、会話をして、今からこちらに来れるという相手の言葉に安堵する。鍵は開けて置くと伝えて電話を切り、仕事場の玄関に向かう。ドアについた鍵を捻って、暗い室内を見渡した。
穏やかな時間を過ごす事が増えてから、時々自分の醜さを忘れそうになる事がある。
リョウに手を出しかけて、久しぶりに自分の節操のなさを痛感した。
ガキは対象外だの何だのと言っておきながら、いざ自分を見失ってしまえば、抱く相手なんて誰であろうと構わない。俺はそういう浅ましい人間なのだ。
そう、まざまざと思い知らされたような気がする。
冷えた室内で、呼び出した男が来るのを待ちながら、苦い気持ちでソファに腰を下ろした。
窓の外は相変わらずの大雪で、ただそれだけの共通点で夢の内容を思い出す自分自身にも嫌気がさしてくる。いい年の男が、たかだか夢の一つで自分を見失っているなんて、他人が聞いたら笑い話にしかならない。
徐々に苛立ち始めた時、かちゃ、と玄関のドアが開く音がして、待ち続けていた人物が入ってきた。黒い癖毛を揺らして室内に上がり、ダウンジャケットを脱ぎながら口を開く。
「ごめん、待った?」
「いや、待ったつーか…」
言いかけた言葉を途中で切り、上着を脱いだそいつの体をソファの上に引き倒した。その体に覆いかぶさって、噛み付くようなキスをする。
「んっ…、は」
キスの合間に相手から漏れた、鼻にかかった声で煽られる。
この男が俺に好意を抱いていることくらいは気付いている。せめてもの義理にキスくらいはするようにしているが、それも、形だけだ。気持ちを押し付けてこないのをいいことに、知らないフリをし続けている。
「……悪い、今日全然余裕ねぇわ」
唇を離してそう告げると、組み敷いた男が楽しそうに笑った。
体だけだと割り切った関係は都合がいい。余計なムードを作る必要もないし、面倒なイベントごとにも縛られない。
「そうみたいだね。いいよ」
クスクスと声を立てて笑い、俺の体に腕を絡ませる。 相変わらず話が早いと思いながら、剥き出しになった本能の赴くままに目の前の体を弄った。
背筋がゾクゾクして、熱を追うことしか考えられない。
狭いソファの上で交わりながら、自己嫌悪に吐き気がした。
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