[携帯モード] [URL送信]

風花と残月
沈黙に咲く


「先、上行ってろ」

 ゼロは仕事場でやることがあるらしい。玄関を開けてすぐにそう言われて、先に階段を上がった。

 部屋の中にひとつだけあるソファの上に腰を下ろして、息を吐く。ガキみたいに泣いたなと、今更になって羞恥心が沸いてきた。

 きっとあの時、首にある傷も見えていたし、それが普通の傷じゃないって事くらい分かるはずだ。面倒なことになってるなんてバカでも気付く。
 それなのに何も聞かないで迎え入れてくれた理由が分からない。どうしてあの人はこんなに優しくしてくれるのだろう。

 ごろりとソファで横になれば、先程まで繋いでいた手にまだ温もりが残っていて、そこからじわじわと暖かいものが広がっていくのを感じた。
 こういう安心感を、俺は今まで経験したことがない。

 張り詰めた気持ちが緩んだのか、急に眠気がこみ上げてくる。そのままウトウトと眠気に身を任せたとき、ドアが開く音と共にゼロが室内に入ってきた。

「……おい。まだ寝んな。傷見せろ」

 言いながら頬を軽く叩かれて、重たくなってきた瞼を開けば、ゼロと目が合う。けだるい体を起こして視線をめぐらせると、ゼロの手にはこの間と同じ薬箱が握られていた。

 眠い目を擦りながら、言われた通りに服を脱ごうとして、ふと、ボタンにかかった手が止まる。部屋を出る前に自分で腕に付けた傷があるのを思い出したのだ。
 ゼロが不思議そうな顔でこちらを見ているのが分かるが、こんな傷を見せられるわけがない。絶対に呆れるか気持ち悪がられるだけだ。
 そう思って俯いて、嫌な汗が背中を伝い始めた時、ゼロの手が俺の頬を抓った。
 反射的に体が跳ねてしまう。

「何警戒してんだよ」

 困ったような声が聞こえる。
 それでも俺の手は動かなくて、俯いたまま身を硬くしていると、頬から手が離れてキッチンの方に向かうゼロの足が見えた。

 呆れられてしまっただろうか。さっきあれだけ泣きじゃくって、鬱陶しいガキだと思われていても仕方がないのに、その上こんな態度を取ったんじゃ流石のゼロも嫌になってしまうだろう。

 何かを言わなければと思うのだが、何を言ったら良いのかわからずに口をつぐんだままキッチンに立つ背中を眺めていたら、ふとゼロがこちらを振り返って視線が絡む。
 思わず目を逸らしてしまったが、ゼロは気にした様子もなく、マグカップを二つもってこちらに戻ってきた。

「飲みな」
「……あ、りがとう」

 目の前に差し出されたマグカップを受け取ると、ココアの甘い香りがふわりと漂った。
 自分のマグカップをテーブルの上に置いたゼロが、俺の横に腰を下ろして、少し言いづらそうに話し始めた。

「……俺としては、見ちまったからには無視もできないわけだ」

 一瞬、何を言われているのか理解できなくてゼロを見れば、眉を寄せて、少し不機嫌そうな顔で、テーブルのマグカップを眺めている。
 何か聞かれるんじゃないか、怒られるんじゃないかという気持ちが胸を占め、その気まずさに再び俯いた時、頭の上に手が置かれて、ぽんぽんと軽く撫でられる。

「……理由とか事情とか、言いたくないなら無理に聞いたりしねぇから、あんまりビビんな」

 そう言って、軽く溜息をついた。
 頭の上に置かれた手の重みと、低い声のトーンが心地よくて、緊張していた体から力が抜ける。


[*Prev][Next#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!