風花と残月
4.
俺は洋輔に抱かれた後、必ずと言っていいぐらい嘔吐する。
ずっとそれが何故なのか分からなかったのだが、多分親父とのことが原因だ。性の対象が男なのもおそらくそれが影響している。
親父がベッドの中に潜り込んできたのは、後にも先にもその一度きりだった。忘れていたのはきっと、俺の中で覚えていてはいけない記憶だったからだろう。
洗濯機を回してから、フラフラとリビングに戻り、痛む頭を抱えて部屋の隅にうずくまった。
硬く目を閉じ、次から次へと沸いてくる嫌悪と憎悪を押さえ込む。ともすればもう一度吐き出してしまいそうなくらい気分が悪い。
洋輔とこの部屋で暮らし始めた頃の事を思い出して、胸が締め付けられるような気持ちになる。
一緒に家具を選びに行ったり、他愛も無いことでお互いに笑いあってキスをしたり、そんな些細な事を幸せだと感じられた。
……夜は普通のセックスをして、そのまま、洋輔の腕の中で眠る。目が覚めて横に誰かが居る事の喜びなんて、それまで俺は知らなかった。
いつのまにか関係は破綻してしまったけど、俺の中の数少ない、幸福な記憶だ。……ずっと、それにすがっていたのかもしれない。
あの頃の洋輔は戻ってこないって、そんな事はとっくの昔にわかっていたのに、頭のどこかで期待していた。だから、今まで傍にいたのだろうと思う。
でも気づいてしまったのだ。このまま傍に居れば、俺はいつか感情を爆発させてしまう。
もう、無理だ。
頭の中をその言葉が巡り続ける。こんな状態で、正気で居られるわけがない。
負の感情が渦巻いて、どんどん大きくなっていくのを感じている。
俺を抱く洋輔の姿に、親父の影がはっきりと重なってしまった。俺を殴る腕も、暴力的な言葉も、一つ一つが忌まわしい記憶に直結している。
思い出したくなんてなかった。思い出さなければ、殴られようがレイプまがいの事をされようが、感情を押し殺したまま何とかやっていけたはずなのに。
顔を上げて、時計を見れば時刻は午前五時。洋輔が夜勤を終えて、帰宅してくるのはいつも八時頃だ。
ここに居たら駄目だと、本能が告げる。
湧き上がる不の感情に打ち勝てる自身なんて、今の俺にはない。このまま洋輔と顔をあわせたら、自分でも何をするか分からない。
行くあてなどないが、とにかくここを離れないとまずい。そう判断して、血の滲む左手首を止血し、手早く準備を整える。持ち物は財布と携帯だけあればいい。
上着を着て部屋の電気を全て消し、暗くなったリビングでポケットの中から鍵を取り出した。洋輔と付き合い始めた頃に買った、お揃いのキーホルダーがいまだについている奴だ。
それをそっとテーブルの上に置き、そのまま身を翻して玄関に向かう。
外に出れば辺りはまだ暗く、雪の上に月の光が反射して、淡い光の道を作っていた。
「……ばいばい、洋輔」
暗い部屋の中に向かってぽつりと呟き、居なくなってしまった優しい洋輔に別れを告げる。
少しだけ、涙が零れた。
玄関の扉を閉め、アパートの階段を下りる。ぎしぎしと軋むそれを踏みしめながら、一度だけ部屋のドアを振り返った。
二度と、あのドアを開けることはない。
今はもう愛情なんて残っていないけど、当時お互いに想い合っていたのは確かな事実だ。この先、あの幸せな時間を忘れることなんて多分できないだろう。
アパートの門を閉め、濡れた頬を拭い、階段と同じように軋む気持ちを振り切って、雪の舞う道を歩き始めた。
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