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風花と残月
3.


 気付いた時、吐き出した汚物はすっかり流れきって、俺の体を伝うシャワーは水になっていた。念のため床をざっと流し、シャワーを止めて浴室の外に出る。
 嘔吐したのは覚えているが、自分の身に何が起こったのかいまいち理解が出来ない。
 昔の事を思い出して気分が悪くなって吐いた。それは分かるが、肝心の吐き気を呼び起こした記憶が何だったのかを思い出せないのが気持ち悪い。

(……何を思い出したんだっけ)

 浴室内での出来事にモヤモヤしながらタオルで体を拭いていると、首筋の傷から血が出ているのに気がついた。見ると、洋輔が付けた傷の上から赤い跡が付いている。 
 無意識のうちに掻き毟っていたのだろう。傷口が広がり、じくじくと血が滲んでいた。
 体を拭き終えてから、傍にあったティッシュで押さえて血を止めて、タオルを腰に巻いたままの状態でリビングに戻る。

 清潔な服に着替えてから、床に散らばったボタンを拾い集めたり、引き剥がされたガーゼをゴミ箱に捨てたりと部屋の片づけを開始しする。
 ああ、廊下も掃除しなきゃと思い出して、うんざりとした気持ちになった。点々と洋輔の精液が落ちるあの床を拭かねばならないのだ。

 溜息をつき、辺りに散乱している服をかき集め、洗濯機のある脱衣所に持っていこうとしたその時。
 服の間からゴツ、と何か硬い物が床に落ちる音がした。洋輔が俺に押し当てていたナイフだ。
 感覚もないままに、俺の肌を切り裂いた鋭利な刃。電灯を反射して光るそれに、先程の恐怖を思い出して指先が震える。
 次の一瞬、頭が真っ白になった。


 ナイフが右手からするりと落ち、床に刺さる音で我に返る。左の手首から肘下まで、うっすらと赤い傷が付いていた。その色と軽い痛みに、頭の中がすっとしていくのを感じる。
 何でこんな事をしてしまったのか、自分でもよく分からない。ただ、ナイフを拾い上げたとき、言いようのない衝動に駆られてしまったのだ。

「……やべ」

 腕を伝い落ちる血に気づき、ナイフを置いてティッシュに手を伸ばしたとき、また吐き気がこみ上げてきた。
 ぐら、と視界が揺れて、危うく床に倒れこみそうになる。

 掃除したばかりの床を汚さないようにトイレに駆け込んでえずいたが、もう吐き出す物なんて残ってなくて、逆流する胃液が喉を焼いた。

 僅かに吐き出した胃液を見た途端、風呂上りから靄のかかっていた思考が急にクリアになる。
 浴室で思い出したものとまったく同じ光景が頭を支配して、ああ、これだったのかとどこか冷静に考えた。

「……っは、」

 便器にたまった胃液を流す。ズキズキと頭が痛んだが、もう意識を飛ばすようなことはない。記憶もしっかりしている。

 今、はっきりと思い出した。
 親父は、昔一度だけ俺のベッドに潜り込んできたことがある。どういう状況だったのかも鮮明に思い出せるくらい記憶はクリアになっていた。
 俺が、中学に上がってすぐだ。夜中に蹴り起され、その痛みに悶える体を無理矢理開かされた。


 酷く酒に酔っていたらしい親父は、お前はあの女に似ている、どうして女に生まれてこなかったと俺を罵り、最後に「すまない」とだけ言って泣いた。


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