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風花と残月
2.
 ぐらり、と視界が揺れる。
 倒れないよう浴槽に手を付いて硬く目を閉じ、荒くなってきた息を吐く。

「……っは、」

 枕元で泣く母親の顔。その翌日に机にあった書置き。割れた酒瓶。小学生の俺に馬乗りになって殴りつける親父。
 断片的な映像は、時系列に沿って進んでいく。相変わらず続く痛みの中で、フラッシュバックし続ける光景を追いかけた。

 中学生くらいだ。まだ若い、先輩だったころの洋輔。バスケ部の顧問教師。相変わらず、夜帰ってくると俺を殴る親父。ボロボロになった畳。
 どれも違う、これじゃないと感じる。何が違うのか分からないが、俺の本能はもっと別な光景を探していた。

 ズキ、とひときわ強く頭が痛んで、夜中に俺を蹴り起した親父の影が浮かぶ。
 逆光になっていて、表情がよく見えない。光景が切り替わって、その親父が俺の胸倉を掴む。

 その瞬間、胸の内側で広がり続けていた墨の動きが激しくなる。
 水面に広がる波紋のように一瞬で俺の思考を黒く染め上げて、目的の光景に辿りついてしまったのだと直感した。
 心拍数がさらに早くなって、浴槽についた手が冷えて行くのがわかる。冷えた手で熱くなる目頭に触れてみれば、いつのまにか涙が零れていた。

 厳重に鍵をかけて、心の奥底に沈めたはずの記憶が涙と共にあふれ出していく。止める方法がわからない。

 親父はあの時、夜中に俺を蹴り起して胸倉を掴んで、何をした?何を言った?

 体がガタガタ震え初めて、思い出すなと頭の中で声がする。心臓がどくんと大きく脈打った。閉じた目の内側では相変わらず断片的な映像が流れ続け、あるシーンで一時停止する。

 俺を叩く洋輔の姿にもうひとつ、記憶の影がゆっくりと重なっていく。

 振り上げらた腕、抵抗を許されない恐怖が俺の思考を支配して、体を支えていることができない。
 膝が落ちて浴槽に付いていた手が滑り、そのまま浴室の床に倒れこむ。

 耳元で獣のような荒い息遣いが聞こえたような気がした。

 首が痛んで、洋輔に切りつけられた傷が熱を持つ。
 もはや広がりきってしまった黒い墨が、渦を巻いて俺の意識を飲み込もうとしている。

 急に吐き気がこみ上げてきて、こらえきれずにその場で嘔吐した。鼻を突く匂いが浴室に広がって行く。
 シャワーからあふれ出る湯が俺を伝い、吐き出したものを少しずつ排水溝に流していくのを、ぼんやりと見つめた。

 その間にも、脳内で過去の光景が再生され続けている。思い出したくない記憶が頭を支配して、耳鳴りと共にぐにゃりと現実の視界が歪む。
 頭が痛い。視界が黒い。呼吸ができない。……何も、考えたくない。


 シャワーの音が、途切れた。

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あきゅろす。
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