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風花と残月
2.
 うつぶせていた体勢から仰向けに転がって、煙草のヤニで薄汚れた天井を見上げた。
 落ち着いていたはずの動悸が激しくなる。慌てて目元に腕を寄せ、零れそうになるものを必死で抑えた。

 気を紛らわすためにポケットを漁れば、ゼロに渡された名刺が指先に当たった。取り出してそれを眺めると、表面は黒地に青で店名と思われるロゴと、その下に「Tattooist ZERO」という名前が印刷されていて、裏面には簡単な地図、電話番号、パソコンのメール、営業時間。ホームページと最後に住所が白黒で刷られていた。

 ふと、裏面の余白部分にボールペンで携帯番号とアドレスが書いてある事に気付く。プライベートの連絡先ということなんだろうけど、思っていたよりも汚い字だ。なんとなく几帳面そうなイメージがあったから、そのギャップに少し笑ってしまう。急いで書いたのだろうか。

 そんな事を考えていると、再びゼロの別れ際の言葉が蘇ってくる。

 何かあったら連絡しろと言っていた。きっと最初からそのつもりで、家を出る前から名刺を用意していたのだろう。傷のことは何も聞いてこないけど、きっと気にしてくれている。何かを察して言ってくれたのだ。
 想像して嬉しいと思うと同時に、先程までとは別の意味で目頭が熱くなる。

「……するわけ、ないだろ」

 名刺を眺めて、自分に言い聞かせる意味も含めて呟くと、表現できない痛みがじわりと心に広がるのがわかる。

 ゼロのことが嫌いなわけじゃない。それどころか、正直あの人の家は居心地がいい。昨日だって渡された弁当を食べて、イレズミの雑誌を読んで。少し寒い気がして、ゼロが近くに脱ぎっぱなしにしていた上着を借りた。
 大して長い時間は経っていなかったように思うが、いつのまにそのまま眠りに落ちていた。疲れもあったのだろうけど、あんな風に眠れたのは久しぶりだ。

 ゼロは、俺を脅かす存在ではない。きっと連絡すれば、何も聞かずに受け入れてくれると思う。変なところでおせっかいな人だ。ボロボロの俺を見て、また心配してくれるのだろう。そんな風に迷惑をかけるのが分かりきってるのに、連絡なんてできるわけがないじゃないか。

 そう考えて、次から次へと湧き出してくる痛みを、心の奥に無理矢理押し込む。

 逃げるように横向きに寝返った時、先ほどゼロの腕の中で嗅いだのと同じ白檀の香りがした。シャツを借りたままだったのを思い出して、あの香りは香水だったのだと悟る。

 もう、二度と会いには行かない。
 服を返せなくなってしまうが、それが一番ゼロに迷惑をかけないで済む方法だ。

 香りを抱く様に胸元を握り、また一瞬だけ涙と後悔が湧き上がってくる。それらを振り払うつもりで目を閉じ、眠気が導くままに夢の中へと逃げ込んだ。


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あきゅろす。
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