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香水
眠いなぁと思ってとろとろ目を開けたり閉じたりしていたら、


遥が頭を撫でた。


「眠いなら寝な?」


「うん…」


それを見ていた譲二が言う。


「寝な?じゃねぇよ、シロが珈琲こぼしたんじゃんかよ」


「でも眠いんだもん」


「で、俺に床を拭かせるのか」


譲二は雑巾を指して言った。


「舐めてもいーよ」


「ははは、俺はマゾじゃないよ」


譲二は相変わらずよく笑う。


目以外で。


あたしは眠った。


化粧したままだけど、いいや。














「…だよ」


「…そりゃ…はは…」


ぼそぼそ。


どのくらい時間が経ったのかはわからないけど、二人はあたしを気遣って声を潜めて話していた。


「だから可愛いんだよシロは」


「たまにね」


「いつもだよ」


「俺、実はシロの下の名前知らない」


「ふうん」


「教えてよ遥」


「自分で聞いてよ。俺言ったら嫌われる」


「大丈夫だよ、言わないから」


「言えないよ」



…遥はなかなかわかってるな。


ふわりと頭を撫でられた。

きっと今ならあたしの顔を覗き込んでると思ったので、目を開けた。


「おはよ」


と遥。


声が、若干驚きを含んでいる。


「…ん、珈琲」


「はいただいま」


遥が立ち上がりキッチンへ。


「ねぇ、シロの下の名前教えて」


譲二が唐突に尋ねた。


ストレートな奴。


「名字は知ってるんだ?」

「うん。高橋さん」


「はい高橋です」


遥以外の大学の連中は、あたしを高橋さんと呼ぶ。


なぜか、中学に上がった頃から同級生にはさん付けされる。


この老け顔のせいかと考えている。


「高橋さんでいいじゃん」

「やだ、俺知りたいの。シロの名前」


「はい、珈琲」


遥が現れる。


彼があたしの前にあるテーブルに珈琲を置いてくれた時、


香水の香りが鼻腔をくすぐった。


この子、まだこの香水使ってるんだ。可愛い。


「教えてって」


「別にいいじゃん」


「じゃあ何でシロなの?」

「それは…」


「俺がつけたんだよ」と遥。


「何で?」


「それは…」










当時、遥とは知り合ったばかり。


お互いの事は、同じ大学でお隣さんという事くらいしか知らなかった。


あたしには大好きな人がいた。


後にも先にも、あれほど愛せた人はいないのかもしれないくらい。


毎日、その人の部屋に行った。


伸び切った避妊具が落ちていようが


女の髪が


あたしの物ではないピアスが


毎回違う香水の香りが


部屋に散乱していようが


構わずに通った。


彼の部屋は常に鍵がかかっていなかったので


あたしは合鍵も持っていなかった。


その時は、しょうがない人、と思っていた。


ドアを開けて女の靴があれば


そっと閉めて帰った。


何が聞こえても、


聞こえないふりをした。


「最後には必ずあたしの元に帰る」


そう信じていた。


心が通じていると、


そう信じていた。










ある夜、いつものように彼の部屋を訪れると


鍵が閉まっていた。


「あれ?」


開かない。


出かける時でさえ鍵なんて閉めないのに。


なぜ?


その日は諦めて帰った。


携帯電話に連絡を入れても、音沙汰は無い。


何度部屋に行ってもドアが開かない。


実家に帰っているのだろうか。


あたしは一種のノイローゼになり、


彼に連絡をし続けた。


ドアが開かなくなって


1ヵ月後。


深夜、それも朝方に近い時間に


着信があった。


あたしは彼と付き合う前から体を売っていた。


その時も、一人ラブホテルのベッドで寝ていた。


うるさい、と思いながらも画面を見る。


「なおくん」の文字。

空で言える電話番号の表示。


直ぐ様通話ボタンを押した。


「もしもし!」


『あ、もしもし?』


「…今どこにいるの」


『家だよ。自分んち』


「じゃあ今から行っても…」


『あー、来ないで。
悪いけど俺、結婚するんだ』


息を飲むとはまさにこの事。


喉の奥で、酸素の塊が音を立てた。


「な」


『うん、だからもう会えないんだよね』


「え、いや、結婚て、あたしが大学卒業するまで待つって」


『あぁ、うん』


沈黙。


それ以上なにか言うつもりがないらしい。


「別れ話とか、そういうのも一切無いわけ?」


『別れる以前に俺ら付き合ってないし。勝手におまえがそう思ってただけじゃん』


「…っ」


『もう引っ越すし、家には来ないでね。じゃ』


一方的に終話。


とりつかれたようにホテルを出て、自分の部屋に帰った。


床に座る。


あー…あ


頭の中には、


彼との思い出が巡っているわけでも


どのピアスを忘れていった女だろうと


考えているわけでも無かった。


虚無感。


泣く気力も無い。


自分が情けない。


なぜ見て見ぬふりを?


なぜ聞こえぬふりを?


あの時に何をしたらこうならなかった?


どうしたらよかった?


所詮、彼にとってあたしは鍵をかける事すら面倒な女でしかなかったんだ。


笑ってみた。


ずっと手が震えていた。


叫んでみる。


声は出るようだ。


もう一度叫んだ。


何を言ったかは覚えていないが


自分の声が耳障りで他の音が聴きたくなったので


部屋をめちゃめちゃにした。


ステレオを窓ガラスに投げ付け


本棚を倒し


コップを割った。


破片が刺さり、腕や手から血が出る。


騒ぎを聞き付けて誰かが部屋に入ってきた。


廊下には何人かが顔を出しているようで、


話し声や足音が聞こえる。

「おい、ちょ、やめ、何、どうしたの!?」


お隣の後藤君だ。


あたしはどこか冷静で、
彼を見るなり


というか彼に見られるなり

動きを止めた。


「ごめん、うるさくして」

「いや、いいけどどうしたのさ。…血が出てるよ」


「ふられた。ちょ…ごめん、あたしちょっと出かける」


「どこいくの」


「わかんない」


わかっていた。


行き先はあの部屋だ。


「うそつけ。わかってるくせにさ」


「あー、うん」


「死にたいの?」


「彼を殺したら」


「赤くなるよ」


「え?」


「血で」


「あぁ」


「黒くもなる」


「何が」


「あなたの、心が」


あたし達は部屋の真ん中に突っ立って、


向き合って話していた。


あたしは強く抱き締められた。



「どうして、白くいられないの」


腕の中に収まっている間中、


なぜなおくんの匂いがしないのだろう


と考えて、


初めて少し泣いた。


大切な物には鍵を。


あたしはこの時から、鍵をかけるのをやめた。







「別に話す事じゃないよ」と遥。


「けーち!!」


1対2の押し問答に飽きたのか


譲二はあたしの珈琲を一口啜り、


絵を描き出した。


遥はなおくんがつけていた甘い香りの香水


ではなく


あたしが遥のために選んだ柑橘系の香水の香りを振りまきながら


にっこりと笑ってみせた。




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あきゅろす。
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