6月のゲジゲジ
習い事
「遅いですよ」
檜(ひのき)で出来た門をくぐると、有無を言わさぬしゃがれた声に一喝された。
先ほどの学生服から一転、ボクは薄いベージュの紬(つむぎ)の着物に羽織、足元は雪駄という出で立ちをしている。
目の前には萌黄(もえぎ)色の単衣に上質な西陣織の帯を締め、白髪を上品に結い上げた老女がボクを悠然と待ち構えて立っていた。
「時間を守れないのは心の乱れがあるからです。それでは今日生けるお花にも影響が出てしまいますよ」
「すみません。でもおばば……」
(しまった!!)
「黙らっしゃい!!ヨネちゃんとお呼びなさい!!」
ボクの生け花の先生である墨田ヨネ子師範。その変わった性格もさることながら、老いを感じさせる言葉が大嫌いだ。
おじじが惚れた花を愛する撫子は、今では立派に華道界の重鎮になった。
おじじ亡き後、ボクは彼女に花を教わっている。
「無理です。ヨネ子さん。ちゃん付けは出来ません」
「まぁまぁ、源さんそっくりの声だわ。さすがは血筋」
ボクが師範の名前を呼ぶと、昔のおじじに想いを馳せたヨネ子さんは頬をほんのりとピンク色に染めた。
(一体、いつの時代のおじじ!?……ボクまだ17なんだけど!!)
「それにしても、貴方が遅れるなんて珍しいこともあるものですね。何かあったのですか!?」
「へっ!?」
いつもは稽古が始まる10分前には座について待っているボクだが、今日は……
『いやぁ、ちょっとビジュアル系にビックリしちゃって、遅れちゃいました!!テヘッ』
なんて口が裂けても言えない。
大体にして、そんな言い訳はこの人に通用しないし……第一言えるわけがない。ボクはまだ命が惜しい。
華道に対するこの人の厳しさは、鬼も泣いて逃げ出すほどなのだから。
「師範〜!!そろそろ始めませんか〜!?」
ボクが言いあぐねていると、邸宅の引き戸から顔を出した若い女性がこちらに向かって大声で叫んだ。
「これっ!!はしたない!!お止めなさい!!」
「すみませ〜ん」
着物全体にふんだんに柄が入った紅型(びんがた)染めの小紋に身を包んだ女性は、ヨネ子さんに咎められると踵を返して部屋の中へと入って行った。
「……まったく。貴方もそのままでは濡れてしまいますよ。さあ、中にお入りなさい」
そう言うとヨネ子さんはボクを邸宅内へと招いた。
背筋を伸ばして、一歩一歩しとやかに歩くヨネ子さんの後ろ姿は、さすがに長年華道の世界に生きた人である。
足元の悪い雨が降る中でもその歩き方は板についていて貫禄があり、とても美しかった。
萌黄色…草葉の萌える色。黄みが強い緑。
紬、小紋…着物の一種。
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