洛陽の花弁 実存変身




黒桐鮮花は魔術の師である蒼崎橙子の住処兼、工房兼、事務所、通称『伽藍の堂』にいた。そこに勤めている兄、黒桐幹也に呼び出されたのだ。
内装のない狭いコンクリートの階段を上り、四階にある少し傾いだ扉をコン、コン、コンとノックし「失礼します」と言って扉を開ける。そこには書類の山と、徹夜明けなのかソファーで仮眠をしている黒桐幹也がいた。
「やあ、鮮花。おはよう」
「おはようございます。珍しいですね。今日は兄さん一人なんですか?」
「うん。橙子さんは藤乃ちゃんを連れて、今度作品を出品するギャラリーの下見で出張中。かなり広いスペース貰えたんだって。式は相変わらずの寝坊。夕方こっちにくるって言ってたけど」
黒桐鮮花は心の中で小さくガッツポーズをとる。愛しの幹也と、夕方まで二人っきりだ。頭の中ではファンファーレが鳴っていた。バゼットと合流するのは日が暮れてから。仕事の話はさっさと終わらせて、あの忌々しい両儀式が妬くくらいに二人っきりを満喫してやるのだ。黒桐鮮花の頭骸骨の中は愛しの幹也の妄想で一杯だった。
「それで、急ぎの話ってなんですか?」
頭骸の中の妄想を気取られないよう、いつも道理の口調を心がける。
「この前鮮花が渡してくれた写真の、白髪の男。逆説の猫、だっけ。彼について新たに分かったことがある」
ほう、と感心する黒桐鮮花。バゼットに「変態的」と称され、蒼崎橙子が「不気味だ。なにかしら性欲的なものを感じる」と恐れおののき、あの両儀式が「頼むから、もう勘弁してくれ」と懇願する、黒桐幹也の異常なまでの情報収集能力。とくに『伽藍の堂』の魔女、人間超常現象、ブレードハッピーを筆頭とする異常者共と触れ合うようになって、その情報網と能力は魔術協会の諜報部並、またはそれ以上に膨れ上がっている。恐ろしい話だ。
「まず彼の潜伏先だけれど、市内の古いアパートにあった。僕が見つけたときには引き払われていて誰も居なかったけど、楽器ケースを持った白髪の男と病気で寝たきりの少女が住んでいたのは確かだそうだ。彼らがそのアパートを引き払ったのが昨日の夕方。一応室内を調べてみたけど、綺麗に掃除されて何にも残ってない。ただ、薬や消毒液の匂いが凄かったのは印象的だったな。あと彼はアパートの他にも駐車場を借りてたらしい。車の車種やナンバーは後で他の資料とわたすよ。
あと逆説の猫本人についてだけど、国籍、出身地、年齢等、全くわからない。対魔術戦部隊のスナイパーとして活躍した以前の記録が全くないんだ。まるでゴルゴ13だよ。
それに、彼が所属していた部隊、何かの実験部隊だったらしい。どういうスカウトや訓練のをしたのかは分からないけど、兵士個人の技術も高く、灰汁の強い魔術師達の集まりとは思えない程の統制を誇っていた部隊だそうだ。そしてそこの兵士達は皆、逆説の猫と同じように入隊前の記録が全くない。名前もあからさまに偽名だ。不気味な部隊だよ。
因みに逆説の猫が入隊したのは、部隊に元から居た狙撃手が殉職したからだそうだ。任務中の魔術回路のオーバーロードだったらしい」
そこまで一続きで言い切った黒桐幹也は「はい、これ」とプリントアウトされた資料を渡してきた。逆説の猫の潜伏先だったアパートの住人のリスト、家族構成と職業のオマケ付き。あと例の実験部隊の名簿だった。
惑星の薔薇、早い亀、泥の男、車輪の蟷螂、歌う蟻、漂う脳…。人の名前とは思えぬダダイズム的な名前が入隊順に並んでいて、一番最後の欄には『逆説の猫』とタイプされていた。
「よく、調べましたね。特に対魔術戦部隊が実験部隊だったなんて、捕縛の任についてる私達でさえ知らなかった機密事項ですよ。」
「その辺は偶然だよ。偶然知ってる人がいて、偶然機密事項だったことを忘れて口を滑らせた。それだけのことさ。」
相変わらずの変態っぷりだ、と黒桐鮮花は黒桐幹也を心の中で罵った。これだから幹也は危ないことに巻き込まれるんだ。そう思った。
「一晩にしては凄い成果ですね。でも、これだけじゃないんでしょ?」
そう、たしかに潜伏先から機密事項の実験部隊の事まで調べ上げたのは驚嘆に値する。しかし、どれも電話で話せば済む要件だ。魔術協会の仕事で忙しく駆けずり回る妹を、この人の良い兄が(そして鮮花の恋心を知らない朴念仁の兄が)こんな都心から離れた辺鄙な場所へ呼び出すはずがない。何か、特別な理由が有るはずだ。
「付いてきて」と、ソファーから立ち上がった黒桐幹也が鮮花に促す。彼は狭い階段を下りていき、二階、蒼崎橙子が仕事で人形を作っている工房の前にきた。黒桐幹也が最近入ることを許され、管理を任されている部屋だ。
「ガチャリ」
彼は銀色の鍵で扉を開けた。
扉の向こうにあったのは、雑然とした空間だった。作りかけの人形達が青い目、黒い目、または作りかけの暗い穴で睨んでくる。暗い工房に艶めかしい白い四肢がズラリと干されてる。無機質な材料で作られた人形達が、人間以上の柔らかさで存在している。
それは黒桐鮮花が普段見ない、芸術家、蒼崎橙子の姿だった。
「鮮花に見せたかったのはあの子達だよ。今度、橙子さんが出品するギャラリーに飾る作品なんだ」
黒桐幹也が指差した先、そこには二体の人形があった。
天使のように蝶の羽を広げる少女。少女に救いを求めるように跪く男。世界は私とあなた、ふたりだけ。神話、創世記のアダムとイブ。または、地球最後の日を見たタイムトラベラーとウィナー。どちらにしても、この恋人達は世界で唯一の人間なんだろう。羨ましくて、涙が出そうだった。
「橙子さんってね、どんな作品でも全力で人間に似せようとするんだ。けして嘘を吐かず、一ミリの美化も劣化も許さずに、ただひたすら人間の空(カラ)を作ろうとする。
だから珍しいんだよ。少女の背中に蝶の羽を生やすなんて嘘。
それと、跪いてる彼の顔、よく見てごらん?」
彼女はしゃがみ込み、地面に額を擦りつけるように懺悔する男の顔を見た。いつかの写真で見た、人形めいた『逆説の猫』の顔その物だった。
「逆説の猫と…。もしかして彼女はグレゴール、ザムザ?」
黒桐鮮花の問いに、黒桐幹也は曖昧な笑みで答える。
「題名は『変身』だそうだ。橙子さんと『逆説の猫』がどういう関係なのかも、どんな理由でこの作品を作ったのかも、僕には調べることができない。けど、大切な物なんだろうということは、僕でも解る。
鮮花、残酷な兄さんで、ごめんね。でも、見せずにはいられなかったんだ」
視界が揺らぐ。黒桐鮮花は黒桐幹也に相応しくあるために、強くなろうとした。
蒼崎橙子につき魔術を覚えたのも、魔術に身を捧げたのも、魔術士を罰する仕事に就いたのも、一途にそのためだった。一度だって迷ったことはない。
しかし、この目の前の人形二人を見て「羨ましい」と思ってしまった今、彼女は初めて後悔していた。私はあの二人、逆説の猫とグレーゴル・ザムザを引き裂く、そういう仕事をしているのだと。
黒桐鮮花は泣き顔を見られたくなくて、幹也の胸に顔を埋めた。
「兄さん。私、少しだけ泣きます」
「ああ」
「兄さんは残酷です」
「ああ」
「兄さんといると、魔術師になりきれてない自分が嫌になります」
「ああ」
「だから、もう少しだけ、このままで…。」
「ああ」
静かに抱き合う二人。その様子は皮肉にも、あの人形達に少しだけ、ほんの少しだけ似ていた。




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