洛陽の花弁 実存変身




集合住宅の屋上。ずぶ濡れで狙撃ライフルを持った白髪の男は、その人形めいた瞳で急発進するビートルを見送った。彼は帽子を深く被り直し、コートについた泥をはたき落とす。そのヨレヨレの格好はハードボイルド小説の探偵みたいで、人形めいた彼の顔には酷く似合っていなかった。
彼は足下においたライフルケースに銃を仕舞いながら、逃げ出した魔術協会の追っ手を思い出していた。
何の偶然か『檻』、隠蔽の魔術の切れ目にスコープの反射を見つけ、挙げ句左腕を犠牲に弾丸の軌道をねじ曲げ回避。そして形振り構わない逃走。
視覚を阻害する『檻』の魔術を解いた時間は、弾丸を射出するための最小限の時間だった。儀礼済みシルバーブレッドにかけられた空間的強化、加速、重力キャンセルの魔術には綻びはなかった。それなのに、その必殺の魔弾を避けたスーツ姿の魔術師。彼女は明らかに異常だった。
「急がないとな」
男、『逆説の猫』が呟いたその言葉は降りしきる雨に流され、誰にも聞かれることはなかった。



逆説の猫がそのアパートに戻ってきたのは魔術師を狙撃したあとの夕方だった。
「ただいま」
「おかえり」
畳の上の布団には独りの少女が寝かされていた。布団から頭だけをだし、病人のような青い顔で逆説の猫に笑いかけた。彼女の髪は白く、長く、蚕の白い繭を思わせた。
「ねえ、また人を殺したの?」
「いいや、やりそこねた。でも、何で解った?」
「硝煙の匂い。触覚がヒリヒリするの」
「すまない、ザムザ」
ザムザと呼ばれた少女は「気にしないで」と呟く。
逆説の猫は冷蔵庫からだした離乳食を鍋にうつすと、それを煮込み、醤油と胡椒で味付けする。狭い室内にはコポコポとペースト状の食事を煮込む音だけが聞こえている。
「明日、全てを終わらせよう」
逆説の猫が言った。
「何故、まだ時間はあるんじゃなかったの?」
「魔術協会から追っ手がきてる。それに、もうザムザの体も限界だろ」
「知ってたんだ。」
「痛み止めの注射、打つ回数が増えてる。それに…。」
彼は彼女の方を見る。彼女の寝ている布団の膨らみ方は、明らかに人間のそれとは違っていた。それは何かの幼虫を連想させた。
「たしかに、私もこれ以上は嫌かも」
彼女、グレゴール・ザムザは確実に虫に近づいていた。今の彼女は『起源』に目覚め、破壊の魔法を内包した蛹であり、一人で動くこともできず、人と同じ食事を捕ることもできない弱い少女だった。モルヒネを注射しなければ体が虫へと変身する痛みで意識を保つことさえできない。
「ねえ、私はまだ人間かな?」
逆説の猫は、布団の下のザムザの体を思い出す。四肢が消え、骨が溶け、辛うじて残った背骨と肋骨で体を支えている体。硬くなってひび割れた皮膚から青い血が噴き出す体。消毒液の匂いのする包帯とガーゼにまみれた体を思い出していた。
「ザムザはいつまでたっても人間だよ」
「うそつき」
ザムザは小さく呟いた。



「グレゴール・ザムザ。彼女が自らの起源『変身』に目覚め、魔法を手に入れたのが一年前。その時に町一つと魔術協会の訓練施設を消し去っている。
彼女の魔法は一種の物質変換魔法らしいな。周りの物質を片っ端からエーテル体の蝶に変えていく、デタラメな魔法だ。目撃者曰く「青い光の蝶が沢山飛んでいた」だそうだ。彼女が作戦で街を一つ消す度に、夜空が青空になるくらいの光の蝶の大群が観測される。綺麗だが不気味な話だ」
「光の蝶、ですか。」
とあるビジネスホテルの一室、そこで黒桐鮮花とバゼット・フラガ・マクレミッツは話し合っていた。
「ところでアザカ、『起源』って一体何なのか教えてくれないか?私はそっち方面には詳しくない。『変身』の起源に目覚める、なんて説明されでも今一ピンと来なくてな」
黒桐鮮花は先輩であるバゼットの意外な告白に少しだけ驚く。
「バゼットさんにも分からないことってあるんですね」
「そうか?私なんかよりアザカの方が知識やその応用は上だと思うが」
「実践で使えないと意味がありません」
「なに、それは経験を積めば使えるようになるって証拠だ。歳を重ねれば良い魔術師になる」
「歳を重ねるって、女としては寂しい話ですね」
あははは、と笑うバゼット。さっきまで命がけの逃走をしていたと思えないその様子がおかしくて、黒桐鮮花もクスクスと笑ってしまう。
「話が脱線してしまいましたね。『起源』についてですが、手っとり早く言えば『その人間がその人間たるための、一番根底にあるもの』ですかね。」
「アイデンティティみたいなものか?」
「似てますが、もっと暴力的で本能的、しかも本人でさえ気付かないようなたちの悪いものです。例えば、私の起源は『禁忌』です」
「なるほど、その例えは良く理解できた」
バゼットは以前が酒に酔った黒桐鮮花が叫んだ「私は兄さんが好きなのよぅおぇえぇ(嘔吐)」というセリフを思い出す。兄妹の禁断の恋、それは紛れもないタブー、禁忌だ。
「ちなみに起源に目覚めると、身体や魂、精神が起源に引っ張られます。起源が『変身』だったグレゴール・ザムザが虫に『変身』していき、周りの物質をエーテル体の蝶に『変身』させるのは良い例でしょう」
「不気味な話だな。」
バゼットには起源の話は不気味に思えた。自分の知り得ない場所で自分の生き方が決まっていく。運命論や魔術師達が求める『 』だったり。バゼットはそういう物が堪らなく苦手だった。
ふう、と黒桐鮮花は溜め息をつく。目の前にはピアスをいじりながら、運命だの起源だの『 』だのについて熟考し始めたバゼット。
「バゼットさん。起源について熟考するのも良いですが、懸案課題はまだあります。その魔弾で吹っ飛ばされた左腕、どうするつもりですか?」
「ああ、忘れていた。
そうだな。日本で魔術師のための義手を修理してくれる知り合いはいないし、暫くは片腕で我慢しようと考えてる」
ヒラヒラと左腕のシャツの裾を振りながら答えるバゼット。さっきまでそこにあったはずの義手はビニール袋に包まれて、油と千切れた人造筋繊維にまみれたグロテスクな醜態をさらしていた。それを見た黒桐鮮花はオエッと胃の中の夕飯と再会しそうになる。
「わかりました。壊れた腕は私が処分しておきます。もって帰りますね」
「処分はいけない。それは大切な物なんだ」
「わかりました。では、知り合いの人形師に修理を頼んでみます」
黒桐鮮花はグロテスクな腕の入ったゴミ袋を掴む。
「ああ、頼む。思い出の品なんでな、壊れて使えなくなった、なんてことになったら『彼』に申し訳がたたない」
「よっぽど大切な物なんですね」
「ああ。私の魔険と同じ『復讐者』の名前を持つ魂を宿した、大切な腕だ」
「あなたの魔険は『復讐者(アベンジャー)』じゃなくて『報復者(アンサラー)』でしょう。間違ってますよ」
「なに、そんなのささやかな違いさ」
『彼』アベンジャーとは何者なんだろう。黒桐鮮花は思った。彼のことを話すバゼットは酷く無防備で、弱々しい。まるで初恋を思い出す少女のようだ。庇護欲をかきたてられる。
私も最愛である兄のことを思い出すとき、こんな表情をしているのだろうか。そう考えたら少しくすぐったい気分になった。
「義手に関しては任せてください。必ずやバゼットさんと『彼』の期待に応えれることを約束いたしましょう」
黒桐鮮花は胸を張ってそう言った。
「ありがとう。また助けられてしまったな」
バゼットのその呟きがあまりに幸せそうだったので、黒桐鮮花は少しだけ嫉妬していた。
なぜ嫉妬してるのかは、結局わからずじまいだった。





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