洛陽の花弁 実存変身



男は少女を抱き、長い夜を疾走していた。
男は今から半刻前、檻の中で命を使い潰されるはずだった少女を救い出し連れ去ったばかりだった。
自由への逃走。彼女と自由になるために、檻を破り、門番を殺して、それでも追ってくる追跡者から男は逃げていた。
男の名前は逆説の猫。
少女の名前はグレゴール・ザムザ。
長い夜が明けていく。
二人の長い逃避行は、まだ始まったばかりだった。



春先の強い風に、黒く長い髪がバサバサとなびき、夜の闇に溶けていく。
女が立っているのは、とあるビルの屋上だった。黒い髪と黒いスカートを魔女のようにはためかし、彼女は夜の街を眺めていた。
「やあ、リコリス。待たせたかな」
不意に背後からかけられた呼びかけに、リコリスと呼ばれた魔女は振り返る。そこに立っていたのは、真っ黒な男物のスーツを着た短い赤毛の女だった。その様は二枚目な男役を演じる舞台女優を思わせた。良く通る声も、きれいな姿勢も、きっとスポットライトの舞台に似合うだろう、と魔女は思った。
「バゼットさん。私、そのリコリスって呼ばれれかた、嫌いなんです。」
「嗚呼、それは失礼。魔術協会の同僚達がそろって『リコリス』だとか『ハリケーン・リリー』だとか呼んでたのでね。てっきり本人公認かと。本当の名前は黒桐鮮花だから、アザカとよべば良いかな?」
あはははと笑いながら、と反省の色のない謝罪をする男装の麗人、バゼット・フラガ・マクレミッツ。魔女リコリスこと、黒桐鮮花は「お任せします」とだけ返事し、不機嫌そうに黙り込む。
「悪かった。謝るから怒らないでくれ。」
ニヤニヤしながら謝罪するバゼットを眺め「はあ」と溜め息をつく黒桐鮮花。
「怒ってません。呆れていただけです。ああ、もう!ぱっぱと早く仕事の話を済ませてしまいましょう。ここは寒いです」
「そうだな。では聞こう。今回の仕事で、私は何をすればいい?」
ニヤリとバゼットが笑う。黒桐鮮花は上着のポケットから小さなノートを取り出し、そこに書かれた内容を読み上げる。
「今回の仕事ですが、魔術協会を離反した魔術師『逆説の猫』の粛正と、彼が協会から持ち出した対死都戦用戦術兵器『グレゴール・ザムザ』の回収または破壊です。彼らが潜伏しているのは、この地区一帯のどこか。幹也の情報なので、ほぼ間違い無いでしょう。
あと、仕事の分担ですが、バゼットさんが前衛、私がバックアップと事後処理。私が調べて、あなたが暴れて解決して、私が掃除する。いつも通りです。」
「逆説の猫か。嫌な相手だな」
「確かに厄介な相手ですね。彼についての情報、殆どが秘匿事項ですから。不気味です」
ふう、と黒桐鮮花は溜め息をついた。
黒桐鮮花。彼女は魔女である。封印指定の人形師でありルーンマスターである蒼崎橙子に師事し、発火魔術とルーン魔術を習得。大学三年生の秋、英国の魔術学府『時計塔』に一年間の短期留学をする。そして、在学中に起きた『ある事件』を解決に導いたことにより、協会に新設された極東地域における神秘の隠匿を執り行う部署『隠匿9課』にスカウトされ今に至る。
時計塔を卒業してから半年もたっていない上に、魔術師の家系の人間ではなかった未熟でいびつな魔術師の彼女だったが、『なかったことにする』ことに関しては飛び抜けた才能をもつ、異能の魔女だった。
その隣で、彼女からもらった事件に関する資料に目を通しているバゼット・フラガ・マクレミッツ。彼女も黒桐鮮花と同じ魔術師である。
魔険フラガラックとルーン魔術を武器に、数々の封印指定の魔術師を捕らえた、封印指定執行者の元エース。冬木の地で行われた儀式『聖杯戦争』に敗れ一時は失脚していたものの、今では隠匿9課の数少ない前衛として、黒桐鮮花とタッグを組んでいる。
「アザカ。この資料、本当にミキヤ一人で調べたのか?量といい、内容の突っ込み具合といい、協会の諜報部並みだぞ」
「ええ。兄さんは優秀な探偵ですから」
「ああ、優秀だ。だが、ここまで来ると恐怖を感じるな。敵にしたら、愛用している生理用品の商品名まで調べあげられそうで恐ろしい」
「兄さんを変態呼ばわりしないでください。怒りますよ?」
「怒るな、怒るな!軽い冗談だ。お前の『愛しの兄さん』を変態呼ばわりしたのは謝罪する。だから、陽炎揺らめかせて物騒な呪文唱える準備をするのは止めろ」
「反省したならいいです」
黒桐幹也(愛しの兄さん)は黒桐鮮花の逆鱗だった。それをうっかり触ってしまったバゼットは慌てに慌てて鮮花に謝る。
彼女は思い出していた。黒桐鮮花がまだ時計塔の学生だった頃、黒桐幹也を侮辱したという非常勤講師がミディアム・レアの焼き加減でテムズ川河口に流れ着いたのを。
以後、時計塔内では『黒桐幹也』は蒼崎橙子の『痛んだ赤』に並ぶ禁句に祭り上げられた。師弟そろって時計塔に消えない傷(トラウマ)を残していったわけである。
「では、私はそろそろ失礼する。集合は明朝でよかったな」
「はい。私が車で向かえに行って、そのまま逆説の猫が利用したとされる薬の売人に話を聞きにいきます。それまでには、資料にちゃんと目を通しておいてくださいね」
「漢字は苦手なんだがな」
「兄を変態呼ばわりした罰です」
「わかった。善処しよう。ではまた明日」
「ええ、また明日」
こうして騒がしい邂逅を終えた魔術師二人は別れた。屋上から去るバゼットの背中を黒桐鮮花が見送る。
バタンと屋上の扉が閉められて、ビルの天辺には黒桐鮮花が一人残された。
春先の強い風に、黒く長い髪がバサバサとなびき、夜の闇に溶けていく。
髪を抑えてた彼女は、厚い雲で覆われた低い雲を見上げる。星は飲まれ、月も隠された。
「明日は雨かな」
黒桐鮮花は掻き消えそうな声で呟き「ふう」と溜め息をついた。





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