「静夜思」






 ああ、これは夢なんだな。少年はそう思って、ぼんやりと目の前の光景を見ていた。
 自分とよく似た顔立ちの少女が、床につくほど長い黒髪を踊らせながら宙を泳ぎ回っている。七歳かそこらだろうか。全身が淡い青色の光に包まれ、少女は楽しそうに“何か”と喋っていた。自分はただ立ち尽くして、それに見入っていた。
「香月! 見える? みんな!」
 ホアユエと呼ばれて、最初ぼーっとしていた少年は、自分のことだと気が付いた。勢いよく首を横に振ると、少女は残念そうだった。
「香月も花月とみたいがよかった……」
 少女は寂しさを隠さずに呟いて、浮いたまま部屋の窓から出て行ってしまった。
「……いかないで、おねえちゃん!」
 無意識に少年がそう叫ぶと、後ろから大人の手に制止された。
「だめだよ、香月。君の姉さんは、仙人様の力を持っている。あの恐るべき才能の開花を邪魔してはいけない」
「花月は我が家始まって以来の大天才だ」
「君主から追われ、長らく辛酸を舐めてきた我々も、あの子さえいれば栄華に返り咲ける」
「見ることも感じることも出来ない、お前のような我が家の恥とは違うんだ!」






「……っ!!」
 少年はベッドの上で目を覚ました。ひどい汗をかいている。なにか、よくない夢を見た気がする。窓の外はまだ夜明け前だった。
 太い腕に後ろから抱き込まれているのに気付き、身体をよじると、筋肉質の見知らぬ男が眠っていた。自分も相手も全裸だ。
(……ああ、今日はベッドか)
 身売りをする少女や少年が集まる酒場で、ガンスリンガーの少年はモンクの男に買われた。顔つきは厳ついが、一夜の相手を買う人間にしては珍しく、人格を尊重して接してくれる男だった。
 ベッドで眠れるのは、身体を買ってもらえた晩だけだった。そうでない時は野宿か、酔ったふりをして朝まで開いている酒場で眠った。路地裏で身を丸くしていて、他の冒険者に所持金を奪われたことも、強姦されたこともあった。
 ベッドサイドに置いた自分の銃を確認すると、男の胸にそっと触れた。貧弱で銃を扱うのがやっとの自分とは違い、逞しい身体だった。
 男がゆっくりと瞼を開き、少年を抱き直す。
「寒いか?」
 問われて首を横に振ると、男はそうか、と瞠目した。
「まだ夜中だ、眠った方がいい」
「……お兄さん、変わってるな。普通、男娼相手にそんな気遣ってくれる人いないぜ」
 男は自嘲する少年の髪を、無骨な手でたどたどしく梳いた。
「寝た後に言うのも滑稽だが……性欲処理の相手として君を選んだわけではない」
「……じゃあなんで?」
「そうだな、黒髪が好きだというのはあるが」
 冗談めかして言う男とその手の優しさに、少年ははにかんだ。
「とても寂しそうに見えたんだ。……こういうことに対しての罪悪感と、自己嫌悪を抱いているようにも」
 少年の瞳がひどく揺れた。男は乱れていたシーツを被せ直して、細い身体を優しく包んだ。
「……だって、俺みたいな実力のない冒険者は……こうするしか」
「……帰る家がある顔ではないな」
 男は身を起こして、床に投げてあった自分の荷物を探った。
「取っておいてくれ」
「……? え」
 ベッドに放られたいくつもの札束に、少年は目を丸くした。五つ六つはあるだろうか。
「お兄さん、夜伽代には高いと思うけど」
「俺の気が済まん。いい歳をした大人の偽善だと思えばいい」
 少年が手を伸ばさずにいると、男はそれをまとめて、ベッドサイドの銃の横に積み重ねた。
「それだけあれば、基本的な装備や消耗品は揃えられるだろう。一日の生活費を稼いでまた身体を売るより、よほどマシだ」
 男はベッドに戻ると、狼狽する少年を慈しむように撫でた。
「本当に、買った俺が言えることではないが……こんなことはもう、やめるんだ。人間としての尊厳を失う前に」
 少年はしばらくぼんやりとしていたが、その言葉が意識に浸透すると、やがて頬を涙が伝った。
「……っう、俺、俺……ひっく、うぇぇ……っ」
 縋りつく身体は幼かった。そのまま空が白んで泣き疲れた少年が眠りに落ちるまで、男はずっと、ただ抱きしめて見守っていた。


 少年は、久々に本当に安心して眠ることが出来た。昼前に宿屋を出たが、お互いに別れを告げるのが惜しくもあった。
「本当に、ありがとう」
「強く生きてくれ。……そういえば、名前も聞いていなかったな」
「ああ、えっと」
 ガンスリンガーの少年は冒険者登録証を取り出すと、モンクの男に見せた。名前の欄には、漢字で香月と書かれていた。
「カヅキか」
「えっ?いや、ホアユエって読むんだ」
「ああ、その発音は……龍之城の方か?」
 少年が頷く。男はしまったな、と呟いた。
「名前を間違われてはいい気はしないな、すまない」
「いや、元々この国の言葉じゃないし……気にしないよ。……その、カヅキっていうのはどこ流の読み方?」
「これはアマツだ。俺はあそこで育ったものでな」
「……アマツ出身ってこと?」
 少年は首を傾げた。無理もない、モンクの男は銀髪に碧眼だった。到底アマツの血が入っているとは思えない。
「両親が、ルーンミッドガッツからアマツに派遣された大使に随行する職員でな。現地着任中に俺が生まれたんだ。あの地を気に入った両親は、任期が終わっても永住することを選んだ。だから、俺はこの国の人種だがアマツ出身というわけだ」
「なるほどね。だから黒髪が好き?」
「そうだ。本能には逆らえん」
 少年がおかしそうに笑うと、男もつられて微笑した。そして自分の登録証を取り出し、少年に見せた。
「俺の名前だ。何か困ったら、……不安な時でも寂しい時でもいい。いつでも耳打ちしてこい」
 なるほど、男の姓名はアマツ風の漢字だった。一見容姿と随分ミスマッチだが、男の内面を垣間見た少年には、とても似合っているように思えた。
「またな、ホアユエ」
「……いや、カヅキがいいな。そっちの方が好きだ」
「そうか。……またな、カヅキ」
 カヅキの頭を優しく撫でて支援の奇跡をかけると、男はテレポートで去っていった。
 明るい内に街に出ることなど、久しぶりに感じた。人生で初めてかも知れないほどの開放感を抱え、カヅキは露店通りの方へ走っていった。
 この金は、男のものだ。彼が望んだように遣うべきだろう。
 そして、明日からはもう、自分を否定せずに生きていくんだ。






「……お前、今なんて言ったんだよ」
 宵の口、町外れのベンチで休憩していたところを、結構な頻度で自分を買っていた騎士とローグに捕まった。
「もう……、売らない、決めたんだ」
「ふーんあっそ……じゃいいわ、おい、酒場行こーぜ」
 ローグはさっさと立ち去ろうとしたが、騎士の方は違った。座ったままのガンスリンガーの少年の襟を掴むと、引きずるように立たせ、そして突然顔を殴り飛ばした。
 しばらくローグも、ベンチに倒れ込んだガンスリンガーも、何が起きたかわからなかった。籠手をつけたまま殴られた。じくじくと頬が痛み出し、唇に何か温かさを感じた。鼻血が出ていた。最初に動き出したのは、ローグだった。
「ちょっ、お前何してんだよ、早く行こうって」
「嫌だ、腹立つ」
 肩を掴むローグを振り払うと、怒りのあまり息が荒い騎士は、ペコペコ用の拍車がついた靴でガンスリンガーの腹に踵落としを食らわせた。露出した部分を拍車が抉り、肉が削げて騎士の靴とガンスリンガーの服に血が飛んだ。ちょうど胃の辺りで、内臓を直接殴られたような激痛が襲った。意識する間もなく込み上げた嘔吐感に、とっさに横を向いてベンチの下に原形をとどめている夕食を吐いた。胃液と飲んだ水の中にベーコンの切れ端が浮いている。
 ガンスリンガーは、頭の芯がずきずきして動けなかった。ひどく気持ち悪かった。ローグがうえっ、と嫌そうな顔をして、騎士を連れて行こうとした。
「もういいだろ、放っとこうぜ。イラついてんなら誰か買えばいいし」
「……俺は、こいつに腹立ってんだよ。俺らが買った金でこれまで食ってこれたくせに、……どうせどっかの金持ちに股開いたんだろ? ……金が出来るなりもう相手はしません、だぁ? ふざけんなよ、ムカつくんだよ! 淫売の分際で!!」
 騎士はガンスリンガーの襟を掴んで引き寄せると、ヘルムで思い切り頭突きした。額が割れ、血が噴き出す。ガンスリンガーはもう考える余裕がなかった。脳天ががんがん痛み、景色がぐるぐる回る。石畳に落とされ、腹も胸も首も、上半身ばかりひどく蹴られた。拍車がかすってあちこちから裂傷による血が噴き出した。耳を蹴られて、激痛の後に左耳から音が聞こえなくなった。痛い場所が多すぎて感覚が麻痺しかけている。左の二の腕を体重をかけて踏まれた瞬間、霞がかっていた意識があまりの激痛に覚醒した。折られた、と漠然と思ったのを最後に、また意識が薄れていった。




 ガンスリンガーの少年があちこちから血を流しながら動かなくなった頃、騎士も息が上がっていた。ベンチに座って不快そうにそれを見ていたローグは、うんざりしたように声をかけた。
「よお、もういいだろ? そのへんにしとかないと死ぬぜ」
「……殺してやる」
「は?」
「俺、出かける。アルベルタにそういうこと出来る店があるんだ」
 騎士はガンスリンガーを持ち上げると、自分のマントで包んで荷物のようにし、肩に担いだ。そのままカプラ職員の居る方へ去っていった。
 残されたローグは、一方的な暴行の残骸を見て、溜め息をついた。
「……あいつ、あのプッツンがなけりゃいい遊び相手なんだけどな」
 あのガンス相当気に入ってたしな、と呟いて、彼は馴染みの身売り酒場へ向かうために立ち上がった。






「いらっしゃいませ。本日は何階へご用向きでございますか?」
 血塗れのマントを着け、生きているのか死んでいるのかよくわからないガンスリンガーを抱えた騎士の姿は異様だった。もっともそれを見ても、受付に座る剣士の少女は意にも介さずにこにこと接客していたが。
「二階で」
「かしこまりました。ご休憩ですか? ご宿泊ですか?」
「……んっと、まだわかんないから、宿泊で取るよ。早く出ても構わないんだよね」
「ええ、お早い分には問題ございません。では、お会計…………でございます。ご宿泊は明朝八時までとなっております。その他なにかございましたら、お帰りの際に追加料金を頂く形となってございます。詳しい内容は二階のスタッフへお問い合わせいただくか、室内の注意書きをご覧になるようお願い致します。十号室へどうぞ」
「ありがと」
 騎士は鍵を受け取って二階へ上がると、二階のスタッフらしいスナイパーの男の案内に従って部屋へ入った。錠をかける音を確認した後、スナイパーは既に動かなかったガンスリンガーの少年のことを考えて、やりきれない気分に舌打ちをした。




「おい、起きろよ」
 冷たい衝撃にガンスリンガーの少年が意識を取り戻す。目を開く前に、ひどい頭痛とあちこちの傷や痣、折れた左腕の痛みが襲ってきた。左耳はぼわんぼわんと妙な感覚がするだけで、シャワーの音は右耳からだけ聞こえた。
 かすむ視界に、自分を暴行した騎士が見えた。冷水のシャワーをかけられていた。傷にもしみたし冷たかったが、それより頭と左腕の痛みの方が上だった。
「ぁ……づ、げはっ」
「喋れない? つまんないな。お前の声気に入ってたのに」
 シャワーを止めると、騎士はガンスリンガーの右腕を持って引きずっていった。ベッドの傍まで来て、右腕を掴んだままその上に放り投げた。全体重がかかった。
「ぃあ゛っ!!」
「あれ、脱臼した? せっかく左は触らないであげたのに、もう両腕使えないね」
 騎士は表情のない暗い顔で、ベッドにぐったり横たわるガンスリンガーのズボンと下着を剥ぎ取った。濡れた上着が身体を冷やす。
「脚上げろ」
 痛みと片耳のせいでよく聞こえず、ガンスリンガーが目を瞬かせると、籠手をつけたままの拳が飛んできた。
「ひ、がっ」
「脚上げろっつってんだよ!!」
 頬や瞼の上が腫れ始め、視界も狭かった。震えながら両脚をなんとか上げると、鎧が擦れるような音が遠く聞こえた。
 覚えのある、嫌な衝撃が襲う。騎士が性器を挿入していた。
「う、ぁ、いだ……、」
「はっ、キツい、力抜けよクソ」
 腹を殴られ、余計に力が入り、両者を痛みが襲った。これ以上殴られたくないという一念で、ガンスリンガーが必死で浅く息を吐いて、じくじくと傷の痛みが強まる一方の身体の力を抜いた。
 これまで買われた時と同じように、騎士は無理やり奥まで突っ込んできた。いつもは痛くてたまらなかったのに、今は他の部分の痛みに比べればなんてことはなかった。
「あ、うあ゛!!」
 突然走った鋭い痛みに、閉じかけていた目が見開かれる。騎士がナイフを握り、ガンスリンガーの上半身を何度も軽く切りつけていた。
「ひっ、い゛っ、やめ」
「こうすると締まるんだよ、気持ちいい」
 切った上からまた切られ、そのたびにガンスリンガーの身体がびくっと跳ねた。騎士はしばらく愉しそうに腰を動かしていたが、やがて痛みと出血が重なったガンスリンガーの意識が薄れ始めていることに気付いた。
「おい、気絶すんな」
「ぁ、あ……」
 殴ってもあまり反応がない。後ろの締まりも緩くなり、騎士は苛立ちを隠さなかった。ガンスリンガーの細い首に手を伸ばすと、籠手を着けたままの手で思い切り掴んで締め上げた。
「!! がっ、ぎ、ぁ」
「あ、締まった締まった。そのままな」
「……、……」
 騎士は息を荒くし、ひたすら腰を打ち付けた。ガンスリンガーの首を絞める力は一切緩めないまま。しばらく抵抗するように脚がばたついていたが、騎士が鬱陶しそうに手の力を強くすると、やがて大人しくなった。
「あっ、あ、出る……っ」
 騎士の身体が震え、より小刻みに激しく腰を動かす。ガンスリンガーの中に大量の精液を吐くと、満足そうに引き抜いた。
「すっごいよかったよ。いくら払えばいい?」
 ベッドに腰掛けて見下ろした身体は、微動だにせずぐったりしていた。騎士は首を傾げて、腹や胸を殴りつけたが、反応がない。呼吸をしている様子がなかった。
「……あーあ」
 溜め息をつくと、騎士はガンスリンガーを放って風呂場へ向かった。随分汗をかいたものだから、ゆっくり流したい、と考えていた。


 部屋の扉を開けると、廊下の椅子に腰掛けて弓の弦を調節していたスナイパーの男と目が合った。
「あー、お時間まだだいぶ」
「ううん、帰る」
 騎士が一人で出てきたのを確認して、スナイパーは表情を変えないまま拳を握りしめた。
「追加料金の確認するんで」
「殺しちゃったんだけど」
「、……確認するんで、少々お待ちを」
 騎士を連れて部屋に入り、ベッドの上のぐったりした白い身体を見て、スナイパーは細い溜め息をついた。
「……じゃ、処理のオプションつけときます。支払いは受付で」
 騎士は興味なさそうに目を逸らすと、廊下へ出て真っ直ぐ階段の方へ向かっていった。




「……ダメ、かな」
 スナイパーは、ひどく暴行された死体を見て顔を顰めた。二階の管理をしている以上、こういった光景を目にするのは珍しいことではない。けど、何回見ても不快で、やりきれないものだった。
 いつものように腰のポーチに詰められたイグドラシルの葉を取り出す。ベッドの下に落ちていた、この少年のものと思われる冒険者登録証は、先程から反応していない。
「……ダメで元々、生き返ってくれよ……」
 スナイパーが葉を少年の胸の上に乗せようとした時、突然、フッと目の前に人影が現れた。
 彼は目を見開いた。ギルドメンバー、店員、もとい同僚の、本来なら地下の四課にいるはずの、ソウルリンカーの女だった。
 どうやって現れたのかはわからないが、彼女を知る人にとってはいつものことだった。ソウルリンカーという超常的なものを扱う職業だということが理由にならないほど、彼女の能力は常軌を逸していた。単純に、本来生まれ持った非常に異質な才能なのだろう。科学を信条とするシュバルツバルドでは、こういったものは超能力と呼ばれると聞いた。
 驚いたのはスナイパーだった。
「!? ファユエ、なんで」
「……香月」
 ソウルリンカーは、ベッドの上の死体の腫れ上がった頬をそっと撫でた。とても優しい手つきだった。スナイパーは、彼女がこんなに感情に揺らいだ瞳をするところを見たことがなかった。言動もまた常軌を逸している彼女は、電波女で通っていたためだった。
「香月、……ほあゆえ、ほあゆえ……」
 ぼろぼろ泣きながら、ソウルリンカーが冷たい身体を抱きしめる。呟いている名前のような言葉は、彼女の名前の発音と極めて似ていた。少年の方の元の顔はもうわからないが、少なくとも、髪の色や体格は似ている。
「……知り合い? 家族か……?」
 困惑するスナイパーが問いかけると、ソウルリンカーの身体が淡く青い光を帯び始めた。彼女は顔を上げて部屋を見渡し、ふらふら歩くと、部屋の隅で手の中に“何か”を捕まえる仕草をした。
「ファユエ」
「消えそう……だめ、消えちゃだめ、カイゼル」
 “何か”が光った。ぼんやりと、淡く青い光を発する“何か”が確かにそこにあった。
 未だに泣き続けているソウルリンカーは、手の中に大事に“何か”を抱えたまま、少年の胸の上の葉に、それを重ねるように置く仕草をした。
「アーキュス、使って、それ使って、花月じゃだめ、世界樹に愛されてる、それ使って」
 何がなんだかわからずぼんやりしていたスナイパーは、名前を呼ばれて我に返った。いつものように葉に手をかざし、ありったけの魔力を込める。
「……リザレクション!!」
 青い光が強くなっていく。びくっ、と少年の身体が痙攣した。それを見るやいなや、スナイパーは床に置いていた白い弓をひっ掴んだ。
「っトゥルーサイト! ヒール、ヒール、ヒール、ヒール、ヒール」
「……ごほっ、げほっ、がはっ」
 少年が咳き込みだしたのを見て、スナイパーは緊迫していた表情をほっと緩めた。経験則で、こうなったらあとはヒールをかけ続ければ大丈夫だとわかっていた。
「カアヒ」
 ソウルリンカーが、少年の手を握った。少年の身体がぼんやり淡く光り、恐らく負った傷が痛む度になのだろう、少しずつ傷が癒えていった。
「ヒール、ヒール、ヒール、ヒール、……っはぁ、はぁ……」
 精神力を使い果たして座り込んだスナイパーは、今度こそ確信した。この少年は、間違いなく彼女の血縁だ。ソウルリンカーのカ系スキルは、ソウルリンカーの魂を付与されない限り、自分自身とその家族にしか使えないという制約がある。
「香月」
 ソウルリンカーは嬉しそうに微笑むと、細かい切り傷などが消え始めている少年の身体を抱きしめた。
「……ファユエ、その子、知り合い?」
「うん、花月の世界で一番大切、だいじだいじ、おとうと……だいじ、花月のおとうと……」





 また、夢を見ている気がする。


 今日は、二歳上の姉の誕生日だった。十三歳になった姉は、風水術も占星術も全て完璧に覚えて扱うことが出来た。それ以外にも、よくわからない不思議な力を姉はごく自然に使っていた。魂の存在を感じることも出来るようだった。仙人様の力を持って生まれてきたというのは、本当としか思えなかった。けれど、学問の方はさっぱり修めていなかった。日常生活にだって支障が出るくらいだったのに、親族はそんなことは構わないみたいだった。
 だから、姉に読み書きを教えたのは、両親でも世話係の叔母夫婦でもなく、弟の僕だった。
「香月、香月、これは」
「牀前看月光……お姉ちゃん、本当に読めないの?」
「うん、読めないの、だから香月が教えてもらう」
「違うよ、お姉ちゃんが教えてもらうんだよ。僕が教えるの」
「香月、香月は花月より頭が強いね」
「頭はいいか悪いか、もしくは弱いかって言うんだよ」
「弱いじゃないのは強いじゃないの」
「違うよ。なにのことを言うかによって、反対の言葉は違うんだよ。たとえば、お姉ちゃんの“力”は強くて、僕のは弱い、とか」
「そう? 花月、“ちから”あるけど、香月は頭が……いい、いいよ。それに、香月は水車直せる、電灯直せる、とっても手が綺麗、花月は出来ない」
「器用ってこと? おねえちゃんが不器用なんだよ」
「器用の反対が不器用」
「そう。ちゃんと覚えてね、お姉ちゃん。今日は君主様の所へ行くんでしょ」
「香月、おねえちゃんの反対は?」
「おとうと。反対って言っていいのかわかんないけど、僕のことでしょ? だったら、弟だよ」
「……おとうと。香月は花月のおとうと、花月は香月のおねえちゃん」
 部屋の中に、両親が入ってきた。
「花月、支度もせずに何をしている」
「香月、花月にあの服を着せるように言ったじゃない、あなたそんなことも出来ないの?」
「あ……ごめんなさい」
「あのね、花月、香月に教えてもらってた!」
「花月、お前が香月から教わるようなことは何もないよ。さあ、早く準備をしなさい。出かけるんだ」
 母が姉を着替えさせ、父は僕を連れて部屋を出た。
「……香月、今日、花月は君主様にお目見えする。我が家は今度こそ、あの栄華を再びこの手にするんだ」
 父のことは、好きになれなかった。口を開けば、そんなことしか言わなかった。僕にはわかる、それが姉をいいように利用することだってくらい。
「お前はこの家に間違って生まれてきてしまったんだ。わかるね」
 目を見開くと、誰かに腕を掴まれた。叔母夫婦だった。
「全く、いつも花月と一緒にいるから参ったよ。弟って立場を利用して、あの子に上手く取り入ろうってのかい。狡賢い子だよ」
「え……、ちが、僕は」
「香月、お前はこの家を出るんだ」
 父の言葉が、よくわからなかった。僕が家で白眼視されているのはわかっていた。けど、出て行けなんて、そんなの道理が通ってない。
「大陸からの国交船が来ている。お前はそれに乗って、大陸へ行くんだ」
「そうでもしないと、いつここへ戻ってくるともわからないしね」
「もう乗組員に話はつけてある。ほら、行くんだよ!」
「余計なことを言ったりするなよ。お前の大好きな姉は、この家にいるんだからな」
 叔父に抱えられ、口を塞がれ、僕はなす術なく家から連れ出された。


「この子ですか? 大陸へ行きたがっている子っていうのは」
「ええ、兄夫婦の子ですの。よろしくお願いしますわ」
「構いませんが、向こうの港で下ろすことまでしか出来ませんよ。僕、一人で大丈夫?」
 屈強な船員に頭を撫でられ、僕はただ、拳を握りしめて震えていた。
「……はい、大丈夫、です」


 ああ、もう船が出る、龍之城の街並みが遠く見える。
「……お坊ちゃん!」
 聞き慣れた声に俯いた顔を上げると、家畜の世話係のお姉さんが息を切らせて走ってきた。僕にも姉にも同じように接してくれた、数少ない人だ。
「小麗さん、どうして」
「不躾ながら、後をつけてまいりました。坊ちゃん、ああ、なんてこと、申し訳ありません、私には何も……」
「ううん、小麗さんが悪いわけじゃないから」
 お姉さんは目を潤ませて、手を伸ばすと僕に小さな袋を握らせた。
「賢い坊ちゃん、なんでこんな目に……。雀の涙ですが、せめてこれをお持ちくださいまし」
「けど……これは」
「私には何も出来ません、坊ちゃんをお助けすることは出来ない。せめて、せめて」
 僕は小麗さんの荒れた手をぎゅっと握った。堪えていたのに、涙が滲んできた。
「小麗さん、お願いがあるんだ、お姉ちゃんが……僕がいないことに気付いたら、心配ないからって伝えて」
「ええ、ええ、必ずお伝えします。坊ちゃん、どうかお元気で」
 汽笛の爆音が響く。船がゆっくり動き始めた。小麗さんは、龍之城が水平線に沈むまで、ずっとこっちを見ていてくれた。
 お姉ちゃんは、お姉ちゃんは大丈夫なんだろうか。泣き疲れたのかもしれない、だんだん意識が薄れていく……。







 ヒールとカアヒが効いたのか、やがて少年の身体が震え、瞼が開いた。
「……っ!!」
「あー落ち着け、大丈夫、大丈夫だから。あの騎士はもういねーよ」
 いつものように、スナイパーが少年の手をそっと握った。冷たく細い、子供の手だった。
「ここ、は……」
「まあ、一種の宿屋だな。俺はただの管理人、なんもしないから安心しろ」
 少年は、もう片方の手も誰かに握られていることに気付いた。ぼんやりそちらを見ると、黒髪のソウルリンカーの女がいた。ひどい既視感を覚えた。
「香月」
「……おねえ、ちゃん?」
「香月、香月、花月のおとうと、香月」
「……お姉ちゃん、お姉ちゃん……!!」
 抱き合う二人から、やがてどちらともなく嗚咽が漏れ始めた。スナイパーは柔らかく微笑むと、黙って立ち上がって廊下に出て、そっと扉を閉めた。






「もっかい」
 西日が厩に差し込んでいた。家畜の世話係の女性は、真っ赤な目で目の前の少女に告げた。
「……香月坊ちゃまは、大陸へ旅立たれました。花月お嬢さまがいらっしゃらない間に。心配ないからと伝えるよう……」
「じゃあ、しゃおりーどうして泣くの」
「泣いておりません」
「泣いてるよ、花月聞こえる、魂泣いてる」
「それは……」
 少女は背伸びをすると、女性の額に小さな手を当てた。
「……お嬢さま?」
「花月見えるよ、聞こえるよ。しゃおりーの“後ろ”が言うの」
 少女の身体が、淡く青い光を帯びた。女性は驚いたが、手を振り払うことはしなかった。
「しゃおりー、やさしい。ばしってしたら、花月が魂痛いと思ったね」
 やがて少女は、手を額からどけると、今度は女性の両肩に置いた。今度は、背伸びはしていなかった。少女の身体は浮いていた。
「お嬢さま」
「花月は香月が一番好き。だいじだいじなおとうと。でも、二番に好きが小麗」
 少女はにこにこ微笑んだ。両手の青い光が強まる。
「だから小麗はとくべつ」
 そう言うと、女性の身体が突如として消えた。後でわかることだが、この時家畜係の小麗は、気絶した状態で君主の御前に瞬間移動させられていた。それがまた、彼女の無実を証明することにもなった。そうでなければ、間違いなく彼女が犯人に仕立て上げられていたことだろう。


「あとは、みんなキライ、だいっきらい」


 その日、龍之城の心霊医術の旧大家で起きた、一族全員が超常的な力で虐殺された大事件の犯人に。
 助かったのはたったの三人。先述の家畜係の女性と、昼過ぎの大陸行きの船に乗るのを最後に姿を消した家長の息子、そしてその姉に当たり時期当主とされていた、家長の娘である。
 そして家長の二人の子供は、当局に発見されずじまいだった。大陸にも捜査を依頼するという案も議会で出されたが、事件のあまりの異質さに、それもまた却下された。
 ……こんな芸当が出来る“人間”が存在するはずがない。身震いする君主のその言葉を最後に、事件について一切の捜査が打ち切られたのだった。




20111208
 













あきゅろす。
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