御題 トラウマのキッカケ(紫黒) 私はいつだって、見ていることしかできなかったから。 『―――父様っっ』 私はいつだって、何もしてあげられなかったから。 だから、 だから、せめてと思って。 パリィィンッ 「――ぁ」 手からつるりと滑り落ちたマグカップ。 中身の入っていたそれは、まだ暖かさの残るココアを辺りに撒き散らしながら床に直撃し、そして砕け散ってしまった。 辺り一面に甘くほろ苦いカカオの香りが途端に拡がる。 …やっちゃった。 溜息を漏らし、自分の足元を見下ろせばココアがそこに水溜まりを作り、しかもブーツにまでそれはかかってしまっていた。 「拾わなくていいぞ」 拾おうと身を屈ませようとした時、頭をぽんと撫でられた。 振り返れば、割れた音を聞き付けてやってきたザインがそこにはいて。 彼は私の袖を軽く引っ張り、私を少し後ろへ下がらせた。 「怪我はねぇか?」 ゆっくりとしゃがみ、カチャカチャと破片を集めながらザインが問うてくる。 私は彼の背中を見詰めた後、自分の手や足を見下ろし、怪我はないと伝えようとして口を開いた。 けれど、その時。 『――パリィィンッ』 突如、ぐらりと歪んだ視界に、赤い水溜まりが見えた。 その赤い水溜まりの中には、割れた透明な硝子片が無数散っていて。 『―……して拒む…だ、……リ…!!』 「おい、ルリ?」 「――っ!」 弾かれたように見上げた視界に映ったのは、心配そうに私の顔を覗き込むザインの顔だった。 「…………」 彼の顔を見た途端に、私は安堵して短く息を吐いた。 何故だか、目の前にいたのがザインで安心した。 よくは解らないけれど、安心できた。 「……っ、…………血…?」 しかし、ココアの香りが充満する部屋に、それとは全く違う臭いを見つけて、私は眉を顰た。 血の、臭い……。 その臭いの元を探るように視線をずらせば、ザインが自分の手を口許に寄せた。 「さっき破片で切っちまったんだ」 嫌いな匂いなのに、わりぃな。 そう言って、彼は自分の人差し指を軽く口に咥える。 『……飲め…』 ドクンッ…と、心臓が跳ねた。 途端に、体中から血の気が失せたような感覚を覚える。 ………なに? 暑くもないのに、嫌な汗が顎を伝った。 「絆創膏貼ってくっか」 私から視線を逸らしていたザインは、至極面倒臭そうに人差し指を舐め、歩き出そうとする。 ドクンッ……ドクンッ…… 「……って……」 「ん?」 声がうまく、出ない。 周りの音もうまく、聞こえない。 体が、震える。 気付けば、私はザインの服を掴んでいて。 気付けば、私の視線は、散らばる破片と茶色い水溜まりに釘付けにされていて。 「……した?…リ」 ドクンドクンと、脈打つ音が煩い。 震える指先の感覚がまるでない。 …………こわい。 怖い。 「ルリ!」 突然の彼の呼び声にはっとして顔を上げる。 すると、その視界で不意に、ゆっくりと上げられた、腕。 刹那、黒い影がザインと重なって見えて…。 『どうして飲まないんだ、ユーリ!!』 「やめて!!!!」 彼の体を勢いよく両手で突き飛ばした。 けれどその反動で自分の体は後ろへ倒れてしまった。 どさりと尻餅をつき、反射で顔を上げれば、そこには微かに灰味の掛かった世界があって。 そして、そこに映った光景に、 私は息を、呑んだ。 『――っ!』 バチンッと、痛々しい音を発て、頬を叩かれた幼いユーリの姿。 それは大人の男に胸倉を掴まれ、ただただ為す術なく泣きじゃくっていて。 『何故だっ!血を飲まねばお前は何れ死ぬんだぞ!』 『……や……だっ、…………やっ…』 止めて。 止めて。 止めて。 止めて。 痛い音が、幾度も響く。 目を背けたくなる音なのに、その音はどうしてか背くことを赦してはくれない。 私には、怯える小さな体をただ見詰めることしかできなかった。 音が鳴り止まない部屋に充満するのは、酷い血臭。 辺りに漂うそれが、恐怖を膨張させていった。 だけど。 「…………やめ」 『やめて』 私の声を遮り、誰かが私を擦り抜けて、2人の元へ歩み出た。 それはまだ幼く、小さな碧い羽根を時折揺らす、黒髪の自分で。 『ユーリは……悪くない。私が、飲むなって……言ったの…』 男がユーリから手を離す。 紅い瞳を丸くさせたユーリは、驚いた顔で私を………いや、幼い私を見詰めていて。 ……あぁ。 あの時……私はあんなにも震えていたんだ…。 小さな私は、背に隠した震える右手で体の震えを止めようと必死に左手を握り締めている。 声だって震えを抑えようとして、微かに低くなってしまっていた。 それでも。 どんなに震えていても、私はユーリを守りたくて…。 『……お前が、』 ゆらりと、男の体が揺れる。 それと同時に、床に崩れ落ちたユーリが慌てて顔を上げた。 その小さな唇が、何度も動く。 けれど小さな私は、後ろへ退かせようとしてしまった足を寸でで止め、男を見詰めていた。 『お前が、ユーリを唆したのか。 …ユーリから生まれた、ただの傀儡の分際で――!』 振り上げられた腕。 視線の先には、割れて散った硝子片と、水溜まりを作る誰のものとも解らない血液。 そして、 『やめて、父様っっ』 私は、歪む視界の中で、ユーリの泣き叫ぶ姿と、 小さな、幼い私の体が床に倒れ込むのを、 何処か冷静に見詰めていた。 ……痛い。 確か、あの時はひどく冷静に、叩かれるとこんなにも痛いのだということを知った気がする。 私は今でもそれを、厭にはっきりと覚えている。 でも、きっとユーリはもっと……………。 「――おいっ、ルリ!!」 「っ!」 気付けばそこは、いつもの城の一室。 だんだんはっきりとしてきた視界いっぱいに、ザインの珍しく焦った顔があって。 「大丈夫かっ?!」 心配そうに私を見詰める、赤と金の瞳。 そして、肌に感じられるのは、優しい彼の温もり。 痛みは、感じられない。 あの男は、いないのだから。 「……………ふっ…」 あの男は………あいつはもういないのだと、 あれは単なる幻だったのだと解った途端、私の瞳からは熱い涙が溢れ出した。 急なそれに余計慌てるザインの胸に私は顔を押し付け、漏れる嗚咽をただ、ただ、噛み締めた。 「…………痛かった…」 頬を叩かれた時、頭の中が真っ白になった。 ただ、頬を打った冷たさが痛くて。 哀しいほどに、温かさなどなくて。 そして、 明らかな拒絶を、感じた。 「………怖かった……っ」 でも、ユーリが叩かれている時に私が感じていたユーリの感情は、酷く、真っ暗な闇で。 何も考えられないほどに冷たい闇で。 私の感じたものなんかより、もっと、もっと辛くて。 その闇が、ユーリを飲み込もうとしていた。 その闇に飲み込まれたら、ユーリが壊れる。そう思った。 だから。 「……でも、」 ユーリを守りたくて。 いつも傍にいても、ユーリを見守ってやることしかできなくて。 見ていることしかできなかったから。 いざという時、何もしてあげられなかったから。 だから、ユーリを守りたくて、あいつに、盾突いた。 嘘を吐いて、あいつの意識が全て私に向けばと思って。 そうしたら自分がどうなるかなんて、解っていたのに…。 「……怖い…よ…」 怖かった。 本当は、体中が震え、逃げ出してしまいたいほどに怖かった。 だって、あいつはいつだって、血の臭いがしていた。 ユーリに無理矢理にでも血を飲ませようとするあいつには、血の臭いが染み付いていた。 「……血の…においは………こわい、よ…」 砕け散った、硝子片。 水溜まりを作る、真っ赤な血。 我を失った、ユーリの父親。 「………こわい…よ………」 硝子の砕ける音。 振り上げられた腕。 赤く紅く赫く、狂い壊れたあいつの紅玉の瞳。 総ては、血の臭いと共に、恐ろしい幻となって私に襲い掛かる。 もう、在るはずがないのに。 いつだって、血の臭いと共に、私にあの恐怖を思い出させる。 ユーリを守ろうとした。 血の臭いに恐怖した。 私のトラウマのキッカケは、 あの時に感じた、 その2つの感情だった…。 (総て消えず、深い爪痕が今でも尚、疼く) これまた長い((苦笑。 今回は、紫黒のお話で。 と言っても、紫スマはあんま絡んでませんでしたね(´∀`;) まぁ、トラウマ話でも基盤は紫黒だからイイかなーってCPは紫黒((笑。 2Pユリズはユーリが血が嫌いだから、3人も嫌いだけど、 黒ユリだけは少し違う理由があってもいいかなーという感じで書いてました。 そしたらこんなに長くなった((笑笑! あー……いい加減、過去話も書かなきゃ………? どうも有難うございましたッ★ 08,09,28 (修正、09,04,09) . [*前へ][次へ#] |