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 朝、うみのイルカは走っていた。
 ギリギリだった。何がというと時間が。現在の時刻は八時十八分。一刻の猶予もないというのに、全速力で走ることは許されなかった。なぜなら、ここは里内であり、自分は忍者だからだ。チャクラの扱いもあわせ、人外とも言える能力を持つ忍は、通常生活にさまざまな規定を設けられていた。それは明文化されているわけでもなければ、罰則があるわけでもない。けれど、ある種の誇りとして木の葉の忍の中に息づいている。能力を誇示しないこと、あるいは、常に冷静であること。凛とした忍の、こうあれればいいという願いのまま言葉は紡がれていた。
 だから本当のことを言えば走らずに仕事に出たかった。当然いつもはそうしていた。イルカは寝つきも寝起きもいいほうだから、それはさほどつらいことではなかった。もっとも、今となってはすべて過去形の話だが。
 苛立ちを感じると胃が小さく差し込む。イルカは腹立たしげに眉を寄せると、怒りを吐き出すように大きく息をついた。
 正直、全速力で走れないのは規定のせいだけではなかった。下半身に残るだるさがイルカの足を遅らせていた。地に足がついた衝撃が伝わって下腹部に溜まるような、ゆるい、痛みともつかない痛みは、耐えられないようなものではないがうざったく、意識せずにはいられない。
 やりすぎなんだよ、あのバカは……!
 いまいましげな表情とは裏腹に、イルカの頬は赤く染まっていた。痛みは否応なしに夜のことを思い出させる。白々とした明け方の空を見た記憶が最後で、そこから先は暗転だ。気が付いたらもうギリギリの時間だった。隣でまだ惰眠をむさぼっている上忍を布団から蹴り出し、とるものとりあえず家を出るまで5分とかからなかったように思う。
 あのバカさえ無茶しなければ、こんなことにはならないのに、と思ってイルカはもう一度頬を染めた。愚痴も苛立ちも、思い出せばそれらは夜の記憶と結びつかないわけにはいかなかった。
 頭を切り替えるように、足を進めたまま首を横に振る。
 アカデミーまではもうさほど距離はなかった。職場にそういう感情を持ち込むことはしたくない。子供は妙なところで聡い。ふっと思い出された光景に気づかれて、先生、どうしたのと言われたことは一度や二度ではない。
 自分の未熟さのせいもあんだろうな。
 カカシは笑って言う。ウソついてもダメだよ、イルカ先生。
「俺のこと好きって、顔に書いてあるよ」
 思い出してイルカは再び頬を染めた。まったく、いけしゃあしゃあとあの男は、クソこっぱずかしくて普通は口にできないような言葉をさらりと形にする。
 もう、やめ。イルカは大きく息をつくと気合を入れなおす。俺がうみのイルカで、アカデミーの教師で、忍の端くれであるならば、もう私事をもぐりこませていい距離じゃない。
 だって、なあ。
 小さく苦笑するとイルカは両足に力をこめ、大きく育った街路樹に向かってジャンプした。右足で枝を蹴り、前に跳ねる。と同時に、イルカは大声で怒鳴った。
「止まれ!」
 前方の気配が瞬間ゆれる。が、それはスピードを緩めなかった。むしろ逃げ出すように、梢を揺らして木々の陰を駆ける。
 逃がすか、っつうの!
 イルカは一足飛びにその影に迫った。ほんの数秒後、イルカは影に追いつき、それの首根っこを引っつかむと、そのまま梢から飛び降りた。
「わ、ッ!」
 バランスを崩し、慌てて手足をばたつかせる。こういうときどうするのかは教えたつもりだったんだがな。イルカは苦笑しながら音もなく着地すると、相手が怪我をしないよう……それでも懲りてもう二度とやらない、と覚える程度には痛い思いをするよう……体が地面につく前に、ぐい、と引いて尻から落ちるようにしてやった。
「いってーっ!」
 ちょうどいい力加減だったらしい。子供は地面に叩きつけられると飛び上がって尻を押さえた。
「先生、ひでーよ!」
「ひでーよ、じゃねえよ」
 地面に落ちて涙ぐんでいるのは、アカデミーの生徒だ。イルカは腕組みしてあきれたようにため息をついてみせた。
「有事以外チャクラと体術を使用した移動手段は許さない、って言ってあるだろ」
「俺は時間厳守って方を守ろうと思ったの!」
「そっちは余裕もって準備するってことで対応すんだよ」
「先生だってギリじゃん!」
 返されてイルカは言葉を詰まらせた。
「や、まあ先生はいろいろ……あんだよ」
「いろいろってなんだっての。俺だっていろいろぐらいあるよ」
「……」
 言葉が接げない。子供は舌打ちしてだから大人はずりーよ、と悟ったような顔で大きく息をつくと、ひとりで立ち上がって尻の砂埃を払った。
「いや、うん、まあ、スマン……」
 自分のことを棚に上げ、ひどくあいまいな言葉でごまかしたのは誠実ではなかった。かといって仔細を説明をするわけにもいかず(したとしてもそれはただの言い訳でしかないし)、イルカはやはりあいまいな言葉で子供にわびた。
 教師という上の立場の人間から素直に謝罪の言葉が出たことに驚いたのだろうか、子供は目を丸くした後、少々照れくさそうに頬を掻いた。
「いいよ。やんなって言われたことやってる俺も悪いんだし。ていうかさ、先生」
「あ?」
「俺らこんなのんびりしてる場合じゃないと思うんだけど」
 子供に言われてイルカははっと気づいた。そうだ、遅刻寸前って時間だった。今は。
「残りは後で職員室だ。走れ! 許される速度の範疇で!」
「うえー」
 許してくれたんじゃなかったの。うんざりした声で返事がかえる。
「それとこれとは話が別だ」
 ほら、いくぞ。子供の背中を押して、イルカは再び走り出した。

 アカデミーに近づくにつれ、走っている子供の数は増えた。卒業間近な子は規定内の速度で走る程度では息を切らせていない。むしろ焦れるようにギリギリで速度をあわせて、先を急ぐ。年少の子は精一杯の速度で走っても彼らには追いつけず、感嘆といくらかの悔しさをもって年かさの者の背中を見送ろうとした。今まで一緒にきた子に先に行くよう言うと、イルカは足を止めようとした子の背中を押した。
 驚いたように子供がイルカを振り返る。
「あきらめなきゃ、まだ間に合う。ほら、走れ」
 背中を押されることでいくらか楽になったのだろう、子供は笑顔で頷くともう一度足に力をこめた。
「せんせい、おっはよー!」
 追い抜きざま声をかけてゆく子供たちに、もっと早く起きろよと言うと、明るい笑い声が返った。
「先生もね!」
 もっともだ! イルカも笑いながら返す。い・そ・げ! 遅刻するよ! 先生が遅刻したらやっぱり罰当番ありなの? いくつもの高い笑い声に追い抜かれ、あるいはあきらめようとする何人かの子供の背中を押しながら、イルカはアカデミーの校門をくぐった。
「間に合った!」
 切れ切れの苦しい息の下、子供がうれしそうに声をあげた。
「オメデトー!」
 校門のところで速くとイルカたちを手招きしていた子供たちがわっと歓声を上げる。
「よくがんばったな!」
 イルカは走りぬいた子供の頭を順にごしごしとなでてやる。
 と、同時にチャイムが鳴った。はっと我に返る。感動してる場合じゃない。授業前じゃないか。
「お前ら、解散! それぞれのクラスへ急げ!」
 はあいと元気な返事があがり、子供たちはまたぱたぱたと駆け出す。
 その背中を、成長をすがすがしい気持ちで見送って、イルカは大きく息をついた。
「まあ、そういうことで」
 背後から、声がした。
「イルカ先生も気をつけてくださいね。遅刻」
 苦笑交じりな同僚の声に、イルカは赤い顔で頭を掻いてすいません、と頭を下げた。



 さて、昼はというと、うみのイルカはやはり走っていた。
 午前の授業も終わり、さて飯でも食うかというときに、職員室のドアがけたたましくあけられたからだ。
「先生、ヒノデが!」
 飛び込んできたのはイルカの受け持ちの子供たちだった。子供の声は必死だ。怪我か。すっと感情が冷静になってゆくのを感じながら、イルカは言った。
「どこだ」
「運動場の、のぼり棒のとこ!」
 返事を聴きながら目の端で医療忍の教師を探す。どうやら食事に出ているらしい。職員室に彼女の姿はなかった。
「俺は先に行ってるから、お前らは保健室の先生呼んで来い」
 わかったという声を背後に聞きながら、イルカは職員室の窓をあけるとそこから飛び降りた。運動場に行くならこれが一番短いルートだ。
 音もなく大地に下りると、イルカは今度は最速で走る。運動場までそのまま障害物はない。瞳にチャクラを注ぎ、眼を凝らしてみてみると子供は血を流して倒れていた。怪我は頭部だろうか、出血の量は多いようだ。なるほど、これなら子供たちがうろたえても仕方がない。木の葉のアカデミーの授業には血に慣らすものは含まれてはいない。それは下忍になって初めて、Dランクの仕事として紛れ込んでくる、屠殺場での仕事で覚えるだけだ。相手を声もなく、血も流さずに殺せる場所。急所は動物も人も同じだ。
 そうして次は人を切り、いつか彼らは血に慣れるだろう。が、今はまだそのときではない。ただ、あんまり慌てるのも考え物だな。応急処置の仕方に自信がつけば少しは変わるだろうか。医療系の教師に相談してみようか。そんなことを考えていたら子供たちのところにつくのはすぐだった。
「先生!」
 残った子供が狼狽した様子で不安げにイルカを見上げる。安心させるようにその子たちの頭を軽くなで、イルカは怪我をした子の様子を見る。
 少年は棒に体を預けるようにして座っていた。隣には、彼の出血を押さえるために、傷口を押さえている子もいる。血が出たら怪我している場所を心臓より上に、出血量が多い場合は止血をする。最低限の応急処置は身についているようだ。
 イルカはしゃがみこんで止血をしている子に訊いた。
「傷口は?」
「洗った」
 なかなかに頼もしい。
「大丈夫か?」
 怪我をした子に話し掛けると、多少驚いて放心している風はあったが、しっかりした視線でイルカを見て頷いた。意識ははっきりしているようだ。一安心というところか。
「すぐ保健の先生が来るからな」
 イルカは笑顔で言った。
 イルカの表情で安堵したのだろう、少年は肩の力を抜いた。
「すっげえ痛い」
「そりゃそうだ」
 イルカは笑って己の鼻を指差した。
「俺のコレみたいに、お前のも傷残るぞ。天下御免の向こう傷ってか」
「なにそれ」
 世代のギャップは説明しても是正されない。わかんなかったらいいよ、と言ってイルカは少年の手を取った。緊張していたのだろう、ひどく冷えていたが、少しずつ熱を取り戻している。また少し、イルカは安堵する。
「まあ、先生が来たらちゃんとした止血と、痛み止めもらって、病院行こうな」
 野戦じゃなくてよかったな。そしたらお前、俺に縫われるか自分で縫うかだから、傷口の痕すげえ汚たなかったぞ。
 子供を安心させるようにくだらない話をしているうちに、保健教務が子供に引かれてやってきた。彼女は止血をしていた手をはずさせると、傷口にそっと触れる。
「先生と呼吸を合わせてね」
 すって、はいて。
 ゆっくりと繰り返されるうちに、チャクラのリズムが合い、出血が止まってゆく。
 やがて完全に血が止まると、彼女は傷口から手を離した。
「痛みも止めたけど、傷口は開いたままだから後は病院に行って縫ってもらって。それから、大事はないと思うけど詳しいところまではわからないから、一応詳しい検査もね」
 喉元すぎれば、だろう。やった、休める、といって子供は笑った。
「そうね、最低2・3日は休んだほうがいいけど、どうせ痛くて動けないわよ」
「え」
「痛み止めのチャクラは2・3時間しか効かないから」
 どうにかなんないのという子供に、彼女は笑いながら答えた。
「なんないわねー、こればっかりは」
 立ち上がりながらイルカを振り返る。
「さて、イルカ先生。この子を病院に連れてかないといけないんですけど」
「ああ、俺が行きますよ。幸い、って言っていいのか、5時間目はちょうど開いてますし。ご両親に連絡だけお願いできますか」
「え、親に言うの!」
「あたりまえだろ」
 子供は、もーぜってー怒られると言ってうんざりした表情を作る。
「病院の方にも連絡は入れておきますね。じゃあ、よろしくお願いします」
 子供の様子に笑いながら彼女は保健室へ引き上げていった。
「お前らも教室戻れ。俺は病院行くから」
「俺もついてく」
 ひとりの子が声をあげるのにあわせて、俺も、俺もと全員が賛同するので、イルカは苦笑した。サボりたいわけではなく、不安からだとわかってはいるが、了解するわけにはいかない。
「大丈夫だから。先生にまかせて。お前らは教室戻って、午後の授業ちゃんと受けて、それから、病院に見舞いに来い」
 どうせ一緒に来たって、病院で待ってるだけなんだから。それよりお前らには大事なことがあるだろう。言い聞かせると子供たちはしぶしぶ、それぞれに彼の傷を心配する表情を浮かべ、何度も振り返りながら教室に引き上げていった。
 暖かな気持ちで、その後姿を見送る。
「さて、俺らは病院行かないとな」
 見下ろすと額の傷をいじっていた。チャクラでの治療のおかげで痛みはたいしたことがないけれど、ぱっくり割れた額の傷のが気になるらしい。
「触るなよ。せっかく先生が治療してくれたのがまた開いちゃうだろ」
「んー」
 止めると素直にやめたが、それでも気になるらしい。見えるはずもない額の傷を見ようとするように、視線を寄せている。
「まあいいから、ほら」
 イルカはしゃがみこむと子供に背中を向けた。
「おぶってってやるよ」
「いいよ、歩けるって!」
「もしもがあるといけないからな。おとなしく言うことをきけ」
 少々高圧的に言うと、しぶしぶという雰囲気で子供はイルカの背中にまたがった。ゆっくりと立ち、なるべく揺らさないようにしながら歩く。
「病院に着くころには、お家の人にも連絡ついてるだろうから」
 心配しなくていいよ、というと子供は呼ばなくていいよ、うざいだけだからと背中で嘯いた。
「しかし、お前。体術は苦手じゃなかったよな。何でこんなことになったんだ」
「ドラゴンボールごっこしてたら、カメハメ波が出たんだよ」
「ハア?」
「ほら、カメハメ波ってさ、手のひらから気を出す技じゃない。だから、こう、手のひらの真中にチャクラ練ったら、ホントに出るんじゃんって。のぼり棒の上でドラゴンボールごっこしてたら、ちびっこーいのだけど、マジ、出て……」
「おいおい」
「みんなに見せようと思って振り返ったら、なんか足の力が入んなくなって、くらって」
 落ちてる最中に体制整えようとしたけどぜんぜん体動かなくて。ぶすったれた声で子供が言う。
「……俺、ホント大丈夫かな」
 仲間と離れたことで体の変調と傷に対する不安がよみがえったらしい。さっきまでの生意気な発言はどこへやら。ひどく心細そうな声で子供が言うので、イルカは声をあげて笑った。
「だーいじょうぶ。ただのチャクラ切れだよ。お前たちにはまだそんなこと教えてないからな。発想はよかったが、そういう技を使うにはもっと他のことをクリアしてからじゃないと、無理だ」
 そう。子供はイルカの答えに安心したのか、小さく息をついた。
「チャクラ切れならだるいだろ。ついたら起こしてやるから、寝ててもいいぞ」
 言うと子供は素直にうん、と返事をし、目を閉じたようだった。
 少し重くなった背中の子供を揺らさないように、それでもイルカはなるべく早く病院につけるよう先を急いだ。

 病院に到着すると、すでに保険医から詳しい連絡が入っているのか、名前を告げただけで待つこともなく優先的に検査にまわしてもらえた。お願いしますと言って看護師に子供を預けると、イルカはロビーのソファに座った。
 腹がぐうと鳴る。
 言われてみれば朝も食べている暇がなく、昼もまだだった。忘れていたということは、それだけ緊張していたんだろうな。イルカは大きく息をついてソファの背もたれに体を預けた。
 怪我は日常茶飯事だ。危険なことを教える場所である上に、まだまだ落ち着きのない年頃だ。それは当然であるけれど、毎度ながら肝が冷える。慣れましたよ、といって笑う先生もいるが、自分はこれに慣れることはないだろうし、慣れたいとも思わない。何事もなく指導できればそれに越したことはないのだ。
 俺は悪い生徒だったなあ、とイルカは苦笑した。わざと怪我をするような失敗をして。ふざけるなとよく怒られたっけ。
 思い出し笑いをするイルカの耳に、パタパタと遠慮がちに急ぐ足音が聞こえた。ふと視線をやると、ロビーへ向かう右手の道から、診察中の子供の母親が小走りで現れた。
 だらけた姿勢を正すと、立ち上がって母親を迎える。
「すいません、ご迷惑をおかけしまして……あの……」
 イルカをみつけるなり、母親は頭を下げた。子供を心配しているのだろう、顔色が真っ青だ。
「大丈夫です」
 安心させるために、笑顔で告げる。
「額の傷はそれなりに深いですが、後は擦り傷が多少、といった程度ですよ。意識もはっきりしていました。頭の傷ですから、検査結果が出るまでは完全に安心とはいえませんが、多分大事はないと思います」
 イルカの言葉を最後まで聞き、母親はようやっと安堵したように大きく息をついた。
「昼休みのことで、監督行き届かず申し訳ありませんでした」
 今度はイルカが頭を下げる。
 アカデミーに入る段階で、危険に関しての契約書は取り交わしてある。謝る必要はないのだが、イルカは頭を下げた。怪我は、ないにこしたことはない。今回のことは、日々の指導でどうにかなることでもなかったけれど、自分には何の責任もありません、という顔をしていることは、イルカには不可能だった。
「いえ、すいません。多分うちのが悪いんです。ほんっと、お調子者ですから」
 母親の頬に赤みが戻ってくる。
「ドラゴンボールごっこをしていて、のぼり棒の上から落ちたそうですよ」
「……」
 言うと、母親は開いた口がふさがらないと言った風情で首を横に振った。
「お恥ずかしい。本当に申し訳ありません」
 母親が再び頭を下げる。
「いえ、でもなんだか……あ」
 診察室のドアが開く気配を感じ、二人は同時にそちらを注視した。部屋の中から額の傷の処置を受けた子供が出てくる。頭に包帯を巻かれた姿はどこか痛々しかった。
 子供は母親の姿を見つけると、悪態をつくか逃げ出すかと思ったが、泣くように眉をひそめた。小走りで母親にかけより、足元でうつむく。
 母親は安堵で言葉も出ないようだった。しゃがみこんで子供の顔を見ると、震える声で大丈夫、とだけ訊く。
「……うん」
 子供は、小さな声で答えた。
 幼かったころの自分の姿とかぶる。鼻を真一文字に横切るこの傷ができたとき、やっぱり母親は血相を変えて飛んできてくれた。
 胸にじんわりと暖かく湿った感情が広がる。つん、と鼻の奥が痛むので、イルカは指の腹で軽く鼻を押さえた。
「怪我の状態は後ほど説明させていただきますので」
 二人が落ち着きを取り戻すのを待って看護師が声をかけた。
「大事はないと思うんですけれど。頭の傷ですから、一応」
 母親はよろしくお願いします、と言って頭を下げた。
「では、後はお任せしてよろしいですか」
 イルカが声をかけると、母親は新ためてお手数をかけましたと頭を下げた。何かありましたらアカデミーまでご連絡ください、と伝える。
「じゃあ、検査室の方へ」
 もう一度イルカに頭を下げると、子供と母親は看護師を先頭に廊下の奥へと消えた。
 その後姿を見送ると、イルカは時計を確認した。時間は2時になろうかというところだった。走れば、6時間目の授業には間に合うか。
 早足で院内を移動する。病院を出ると、イルカは学校に向かって駆け出した。



 そして午後のイルカも、やはり走っていた。
 慌てて病院から戻ってくると授業五分前だった。今日最後の授業は体術だ。しかも遠距離走。山ひとつ越えた場所にある場所においてある札を取って帰ってくる、というのが内容だ。イルカは、散り散りに分かれた子供たちを追って走っていた。姿は見えないが気配ぐらいは感じる。足を止めると、あたりを確認するように伺い、イルカはススキの原にガサガサと分け入った。
 パン、と大きく手をたたく。
「ほら、走れ!」
 大声で怒鳴ると、追い立てられた雀のようにススキの中から子供たちが飛び出してきた。逃げ出す子供たちを追いかけるようにして走る。
「だーって、札もってゴールすりゃいいんでしょ!」
 走りながら子供がイルカに反論した。
 すでに幾度か実施されているこの授業の内容の意味を、子供たちはすでによく知っていた。札さえ持ってゴールすればいい。走るのが嫌いで腕っ節の強ければ、ゴール付近で待ち伏せをし、戻ってきた者の札を奪えばいいのだ。
「ああ、札もってゴールすりゃいいんだよ!」
 イルカは答えた。
「奪うのもいい、が、隠れるならもっと上手くだ。トップ組はお前らの気配感じて、ルート変えたぞ」
「えー!」
「ぜんぜん気づかなかった!」
「そういうやつはズルせず走るの!」
 イルカはにっと笑った。
「絶対にお前らの力に変わるんだから!」
「ホントかよ!」
 息を切らせながら、子供が返した。
「俺はウソなんかつかないよ!」
 努力が全て報われるとは言わない。才能が大きくものを言う世界だ。それでも走ることは決して無駄にはならない。
 ゴウゴウと風を切って走りながらイルカは答えた。
「考えながら走れ。奪われるな。健闘を祈る!」
 イルカは子供たちの背中に敬礼をし、道をたがえた。数分後、またキャアっという子供の声が森に響いた。



 夕方のうみのイルカも、当然走っていた。
 正直、疲れていた。しかしこんな日に限って任務受付の当番、こんな日に限ってつまらない書類の確認ミスをしていた。
「俺、ちょっとサインもらってくるわ。今出てったとこだし、その辺で見つかるだろ」
 終業近くで人も少ない。イルカは席を立った。悪い、よろしくという同僚の声に送られて部屋を出たのだが、追えばすぐ見つかるかと思った人の後姿はすでになく、駆け足で官舎内を探してはみたものの、やはりどこにも影はなかった。
 足を止めるとイルカは息をついた。無駄足だったか。仕方ない、仕事に戻ろうとしたそのとき、彼を呼び止める声がした。
「イルカ」
「はいッ」
 聞き覚えのあるその声に、イルカは背筋を伸ばし短い返事をした。
 火影は口からパイプを離すとゆっくりと煙を吐き出す。
「そうかしこまらんでもいい。姿勢を崩せ」
「……は」
 言われれば無視するわけにもいかない。居心地悪そうにイルカは姿勢を楽にした。
 火影は胸元を探ると、懐紙に包まれたものをイルカに向かって差し出した。イルカはそれを両手で受け取る。
「……これは?」
「悪いがそれを七ツ屋の主人に届けてくれ」
「七ツ屋……ですか?」
 七ツ屋は古い造り酒屋だ。出荷のシーズンには、定期的にDランクの仕事を依頼してきた。長い付き合いで、火影とも懇意にしていることは知っていた、が……。
「しかし私は今、受付当番で……」
 言葉が終わる前に終業の鐘が鳴った。
「では、よろしく頼むぞ」
 否とは言えない。ついてないなあ、と思いながらイルカは了承したと頭を下げた。
「おお、それから」
 もうひとつ、と火影は懐から、先ほどイルカに渡したものよりふたまわりほど小さい包みを取り出し、イルカに渡す。
「金が入っておる。酒を一升買ってきてくれ。残りは、お前の駄賃だ」
「いや、いただけません」
「いいから」
 火影は笑った。
「伝令でも出せばいいところをお前に行ってもらうんじゃ。このぐらいはとってもらわんと、わしの方が心苦しい」
 酒は家の方に持ってきてくれ。言うと火影はイルカの前を去った。イルカは慌てて書類を受付に戻し、悪いけど後は頼むといって、受付所を走り出た。

 任務自体はそう難しいものでもなかった。七ツ屋までは五里ほどの距離だ。早駆けで1時間ほど。火影から直接の書状だから、途中間者が現れないかと注意もしたが、気が抜けるほど何事もおこらなかった。主人に書状を渡し、秘蔵の酒を二升、譲ってもらう。
 主人に礼を言い、酒を背負うととイルカは再び里に向かって駆け出した。
 帰り道、もしかしなくてもこれは火影の、自分に対する労いなのだろう、とイルカは思った。簡単な任務。駄賃というには多すぎる金。普通は口にできないような上手い酒。見ていてくださるのだなあ、と思うと、胸に去来するものがあった。じんわりと涙が浮かぶ。
 もういいかげん走るのには疲れた今日だったけれど、もうひとがんばり。この酒を一刻も早く火影さまにお渡ししよう。イルカは両足に力をこめる。たぷん、と、背中の酒がゆれる。
 正直、二升の酒を担ぎながら走るのは楽ではなかった。重さは絶えられないほどではないのだが、中身が流動体の場合、走りのリズムが崩れると妙なゆれになって帰ってくる。一定のリズムで走るか、最初から揺らさないように走るか、あるいはチャクラで波立つこと自体を止めるか、が求められる。他のふたつを選ぶには少々疲れていたので、イルカはリズムを保ちながら走ることを選択していた。なかなか、面白い体験だ。
 ちょっとまてよ、これを授業でやらすのもいいかもな。
 走りながらイルカは考えた。重さも五キロほどだ。負荷としてはちょうどいい。どれを選択するかで、子供たちの得手不得手もわかる。なかなかいい考えのように思われた。
 酒屋に寄って、ビンを分けてもらえるよう訊いてみようか。
 善は急げだ。イルカは笑顔でうん、と頷くと揺れを気にしながら、少しずつ走るペースをあげた。

 里に帰り着くと夜はすでに更けていた。
 火影の家に立ち寄り、酒とあまった金を渡す。それはお前のものだという火影に、イルカは笑顔で言った。
「そのお心遣いだけで、充分に」
 深く頭を下げる。
「俺は、寄る辺ない人間です。だから、誰かが俺の事を見ていてくれる、ということ自体がとても……ありがたくてうれしいんです」
 本当にありがとうございます。
「……やっぱりくださいと言われても、もう返さんからな」
 しょうがない、という顔で火影が笑った。
 顔を上げてイルカも笑う。
「ならば一杯やってゆけ。この酒は上手いぞ」
「いや、すいませんが、あまり時間がなくて」
「なんだ、何か約束でもあるのか」
「いえ、そういうわけじゃないんですが。酒を運んでいたときに、これを授業に取り入れたら面白いかなと思いまして……その準備をしたいので」
 照れくさそうにイルカは頭を掻く。
 火影は感心したような、まったくバカ正直なとあきれたような顔で苦笑いをした。
「そうか、ならあまり無理に引き止めるのもな」
「申し訳ありません、そちらは、また機会がありましたら」
 それでは、失礼しますと短く言い、イルカは火影のもとを拝辞した。

 酒屋が閉まるまで半刻もあるかないかだった。
 かといって一升瓶を抱えて酒屋を訪れるわけにもいかない。とりあえず一旦これを置いてから出直そうと、イルカは自宅に向かって駆け出した。どうせ一日中走っていたのだ。あと十分、十五分走ったところでいまさらどうということもなかった。
 帰り着いた部屋は暗かった。カカシは来てないようだ。ほっとするような寂しいような感覚に、イルカは小さく頬を染めた。部屋の電気をつけ、一升瓶を台所に置く。
 テーブルの上に小さなメモが残されていた。
『昨日は(今日はっていうべきか?)ごめんなさい。すいませんでした。俺が悪かったです。お詫びをしたいので、8時に麻の葉で待ってます。怒ってなかったら来てください。もち、おごり、ます』
 署名はなかったが誰が残したものかははっきりとしていた。カカシだ。時計を見る。時間はすでに9時を回っていた。すぐに行けばあるいは、と思ったが、火影の誘いを断った手前、それをせずに待ち合わせの場所に行くのはためらわれた。
 いや、すでに一時間以上たっている。怒っていると思って、カカシはしょんぼりした顔で自宅に戻っただろう。
 イルカの胸が小さく痛む。申し訳ないことをした。でも、カカシだって悪いのだ。今日のこの間の悪さは、多分朝の遅刻から始まっていて、となると、それはカカシの自業自得でもあるわけで。
 ふん、とイルカはむくれて見せた。そうだ、俺のせいじゃない。だって俺は怒っているし。こんな風に一方的に約束をおいておくほうが悪い。他のやつと飲みに行ったりして、遅く帰って俺がこれを見たらすごく申し訳ないと思うだろうに。そのぐらい気遣えよ、バカ!
 誰かに言い訳するような言葉を心に思い浮かべると、イルカは改めて部屋の電気を消し、下足を履くと家を出た。酒屋が閉まる時間まで、もう間がなかった。

 いつも世話になっている酒屋の主人に話をすると、閉店間際にもかかわらず彼はイルカの話を聞き、申し出を快諾してくれた。
「何本いるの? 配達ついでにアカデミーに届けとくよ」
「ちょっと数は多いんですけど、百ほど……」
「はあー、確かに多いね。でもまあ、なんとかするよ」
 生徒さんに2本ずつもってこいって言っても、どうせどっかの酒屋に行くだけだからね。まとめて収めたほうがわかりやすいよ。
 主人はそういって笑った。
「ホント、申し訳ありません」
 イルカは頭を下げ、いつも買うよりいい酒を一本、主人に頼んだ。
「無理しなくてもいいよ」
「いや、ちょっとこれから、友達のところに行く用があって、手ぶらじゃなんなんで……」
「なに、こんな時間に、いい人んとこ?」
「いいひとって、言い方ふるいですよ」
「いいじゃない、ツレとか恋人っていうより、俺は雰囲気があって好きなんだよ、いい人」
 主人は酒を包むと、イルカに手渡した。これ以上からかわれてもたまらないので、代金を払うとイルカはもう一度礼をいい、慌てて酒屋を後にした。

 十五夜の明るい月の光が道を照らしている。ようやっとすべての用を終え、ほっとした心地で夜道をゆっくりと歩く。
 イルカは大きく息をついた。
 本当にあわただしい一日だった。朝昼晩と走りどおしだ。それもこれでおしまい。明日もまたきっとあわただしいだろうけれど、今日ほどとは思えなかった。
 家に帰って、月でも見ながら酒の封でも開けっか。
 ひとりで。
 思うと少し寂しくなった。
 ひとりで待っていたカカシも、寂しかっただろうか。
 勝手な約束を押し付けたカカシがいけないのだから、罪悪感を覚える必要はない。けど、でも。
 イルカは足を止めるとぎゅっと目を閉じた。
 家には一升酒があって、そしてここにも一升酒があって。
 それは一人で飲むには到底量の多いものなので。
 言い訳に背中を押させ、深夜のうみのイルカは駆け出した。

 麻の葉にはカカシはいなかった。
「三十分ほど前まで、いらっしゃったんですけど」
 もうお帰りになったんじゃないですかねえ。話の途中で礼をいい、イルカは今度はカカシの部屋に向かって走った。
 月明かりの下、一升瓶抱えて走っている男というのも妙な光景かもしれない。それでもイルカは会いたいと思った。ほっとしたとき、一番最初に思い出した。部屋にいなくて寂しかった。そう、寂しかったのだ。
 許される精一杯の速度で駆ける。朝と同じ速度で。思いの丈は足よりもずっと早く走る。何で会いたいと胸が騒ぐのだろう。なんて考えても無駄なのだ。だってこれは恋なのだから。
 ばっか、俺、バカ。
 こっぱずかしいことを考えている。でも本当だ。あいたいと思うと止めようがなかった。だからこそ、夜が明けるまで抱き合うんだから。
 あいたいんだ。
 もう一度思ったとき。
 月光の下、こちらに向かって駆けてくる銀の髪を見つけた。
「……」
 イルカは言葉も出なかった。夢みたいだと思った。会いたいと思った人が、自分と同じ速度で駆けてくる。きっと、思いの丈も同じ速度で。
「あれ、イルカさん、なんで?」
 ぽかんとした表情で指差され、イルカははっと己を取り戻し、真っ赤になった。何だ今の思考は。少女漫画か俺は。
「え……っと、あの、こ、これ!」
 手にした一升瓶を差し出す。
「メモにあった時間には俺、任務でいなくて、ひとりで飲むには多くて……じゃなくてあの……」
 自分の支離滅裂な言葉に、イルカは耳まで赤くなった。
「か、カカシさんこそ、なんでこんなとこ……」
 イルカの質問に、カカシは照れくさそうに笑って、頭を掻いた。
「俺は、イルカさんに会いたくて、ね」
 なんかこういうこと直球で言うの、狙ってるわけじゃないとちょっと照れるよね。自分の言葉をまぜっかえすように言うカカシの表情は、いつにもまして素に近く、イルカは胸をつかまれたような気持ちになった。
「俺も、です……」
 胸が、声が詰まる。全速力で走った後のように苦しい。そして痛くて甘い。
 ぽろりと、イルカの目から涙が落ちた。
「なんかイルカさんは、うれしいと泣くよねー」
「押さえきかない人ですいませんねッ」
「いいよいいよー」
 言ってカカシはイルカの頭をなでる。
「どうせ泣けないときは泣けないんだからさ」
 感情を殺しているときは泣くような場面でも泣けない。だから、今許されるときは泣いてしまえばいいと、カカシは言っていた。
 カカシはイルカに向かって手を差し伸べる。
「手ぇつなごうよ」
「いやですよ、恥ずかしい」
 イルカは止まらない涙をいまいましげにこすりながら答える。
「ええー俺イルカ先生とつながりたいよー」
 臆面もなく答えるカカシに、一瞬あっけにとられてから、イルカは赤くなった。それは俺だってそうだ。だけど、いい年した男が二人手をつないで歩くのは恥ずかしすぎる。
 イルカは一升瓶の口をカカシに向けた。
「なに、これ」
「そっち持ってください。俺はこっち持ってますから」
 これでつながるでしょう。言うとカカシは一瞬ぽかんとした後、ゲラゲラと笑い出した。
「なんか、ホント、あんたはいいよね。だいすき」
「なっ、あんたがつながりたいって言ったんでしょうが!」
 カカシはイルカの差し出した一升瓶の口の方を持った。じゃあ行きましょうか。言って歩き出す。
 引かれて、イルカはカカシの後ろを歩いた。
 暖かな感情が、イルカの胸を満たした。



「ギャー!」
 そして翌朝。うみのイルカはやっぱり走っていた。


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