シルクハットの座長と道化の綱渡り 席についてもしばらく、ビアンカは落ち着かない気分だった。 まだ、視線が肌に貼りついているような気がする。 やああって、賑やかな音楽とともに、サーカスの幕が上がった。 「紳士淑女の皆さま、本日は我が〈デイドリーム〉一座の公演へお越し下さり、誠にありがとうございます。 わたくしは当一座の座長、パブロ・ウィスラーにございます」 最初に舞台の上に現れたのは、シルクハットにモーニングを着た、初老の紳士だった。 小太りで、白い顎鬚をたっぷりと生やしている。 「おっと失礼、お客様の前で帽子を脱がないのは紳士の礼儀に反しますな。 しかしどうかご容赦を。何せ光を反射しますのでね。 折角のショーの前にお客様の目を潰してしまっては大変ですからな」 座長が自虐的なギャグを飛ばし、客席からは苦笑と「ああ」という嘆息が漏れた。 髭は密林のように鬱蒼としているのに、シルクハットの下は砂漠らしい。 「わたくしの帽子の中の神秘はともかくと致しまして、早速我がサーカス団最初の仲間をご紹介致しましょう。 魔法に奇術、玉乗りに綱渡り、言われたことならなんでもこなす、ただし、ちょっとばかり頭が弱いのが玉にキズ。 陽気な道化のサウダージ!」 座長がステッキを振り上げると、パッとスポットライトが舞台袖へ当たった。 が、呼ばれた役者はなかなか出てこない。 「ん? サウダージ?」 帽子のつばを軽く持ち上げ、座長はきょろきょろと辺りを見回した。 すると、客席の間から、赤と白に塗り分けられた大きな玉に乗って、ピエロが現れた。 さっき、入口でビアンカを凝視していた、あのピエロだ。 二股に分かれ、大きく垂れ下がった先端に、金色の星の飾りをつけた帽子。 体の右半分は藍色の布地、左半分は、パールホワイトと濃い青紫のダイヤ柄の布地を使った、ゆったりしたつなぎの服。 三日月のように反り返った靴で器用に玉を転がし、ピエロは花道を通って舞台まで辿り着く。 が、玉は当然舞台の段差にぶつかって弾かれる。 道化は跳ね返って転がる玉とは反対に、舞台の上へと躍り出た。 前のめりになってよろよろしながらも、なんとか持ちこたえ、ずり落ちそうになった帽子を押さえる。 客席を振り仰ぐと、華々しい登場をアピールするかのように両手を広げた。 後ろからステッキで頭をこつんと叩かれ、飛び上がって振り返る。 「お前はどこから出てくるんだね。ほら、玉を拾いに行ってきなさい」 折角舞台へ上がったのに、座長に怒られてしまい、ピエロはすごすごと玉を拾いに行った。 しゅんとしたその様子に、小さな子供たちが笑い声を立てる。 最初は玉に乗って現れたピエロだが、拾いに行って帰って来た時、玉は帽子を脱いだ彼の頭の上に乗っていた。 「さて、〈デイドリーム〉の仲間たちは皆、魔法使いでございます。 それはここにいるサウダージも同じ。彼は願えばどんな魔法でも見せてくれます」 座長の口上に、ピエロはうんうんと頷いている。 「誰か、どんな魔法が見たいか、リクエストはありますかな?」 前列の子供たちが、はいはいと元気よく手を上げる。 「では、そこの、赤い服の坊や。どんな魔法が見たいかね?」 「空を飛ぶところが見たい!」 指名された少年がそう言うと、ピエロは何やら座長に耳打ちした。 「え? 何? 空を飛ぶのは今日はお休み? 全く仕方ないね。じゃあ別の子に訊いてみよう。 今度はちゃんとお願い通りの魔法を見せてあげるんだよ?」 うんうん、と頷くピエロ。 すでに展開が見え、客席からはくすくすと笑いが漏れる。 座長が別の子を指名すると、その子は「姿を消してみせて」と言った。 だが、ピエロは体の前で両手を交差させ、バツ印を表した。 「え? 今日は風邪気味で調子が悪いから無理? 全くお前は能なしだね。そんな奴はサーカスに置いておけないよ」 すげなく言った座長に、ピエロはよよと縋りついた。 それから、ぽんと手を打ち、自身の長い亜麻色の髪を一本引き抜いて、ふうっと息を吹きかけた。 するとそれは、彼の両手の間で煙の塊になった。 「おっ、ホントに魔法か!?」 マーロンが色めき立つ。 煙はやがて、一つの形をとった。 それは、中世の貴族が被っていたような、白い巻き毛のかつらだった。 ピエロはそれを、座長に献上する。 座長は渋い顔をし、客席からはどっと笑いが起こった。 「お客様のリクエストを聞かずに、私が欲しい物を出してどうするんだね。 え? とっておきの技を見せるから勘弁して欲しい? 仕方ないね、やってごらんなさい」 ピエロは嬉々として、舞台の上部に設置されたデッキへ向かった。 反対側にもデッキがあり、その間に綱が張られている。 「皆さま、今日はちょっと空は飛べないみたいですが、サウダージは空中歩行を披露してくれるようですので、どうかご容赦下さいませ」 どうやら、綱渡りをしてみせるようだ。 太い綱に足を乗せるピエロを見て、ビアンカは顔を強張らせた。 隣のマーロンが噴き出す。 「何ガチガチになってるんだよ。お前が綱渡りするわけじゃないだろ?」 「そうだけど、だって、あんなに高い所……見ているだけで怖いわ」 「ビアンカは本当に高い所嫌いなのねぇ」 マーロンの向こうに座ったサラも、くすくすと笑っている。 記憶を失ってからそうなったのか、それとももともとなのか、はたまた、記憶喪失の原因に高い場所が関係しているのか。 原因は定かでないが、ビアンカは極端な高所恐怖症だった。 二階の自室の窓辺にさえ、余り近寄りたくないと思うほどだ。 ハラハラと見守るビアンカをよそに、ピエロは歩き出すと同時にどこからかボールを二つ取り出し、ジャグリングを始めた。 歩く度にボールの数は次々に増え、それを難なく空中で入れ替えながら、歩みを進める。 「あの人ボールどこから出したのかしら? あれも魔法?」 「うーん、マジックでも出せないことはないからねぇ。どっちだろう」 サラが瞠目し、ジーノは腕組みして考えこんでいる。 このサーカスの謳い文句は『魔法と奇術の融合』だったが、その相違を見極めるのはなかなか難しそうだ。 綱の中ほどをすぎた時だった。 ピエロは、綱から足を踏み外した。 「サウダージ!!」 ヒュッと息を吸いこみ、ビアンカは口を覆った。 客席から悲鳴が上がり、座長が緊迫した声を発する。 ピエロは、腕一本で綱にぶら下がっていた。 肝を冷やした観客たちは、次いで、ざわざわとどよめき出す。 これは演出なのか、事故なのか。 命綱はつけているし、下にネットも張っている。 だが、曲芸師がショーの最中に綱から落ちるなんてことはそうそうない。 勘ぐる客たちの前で、ピエロはボールを全て上空高く投げ、体を大きく揺さぶると、なんと綱の上に戻ってしまった。 綱は大きく左右に揺れ、ピエロの体もよろよろしている。 落ちてくる玉をキャッチするには、体勢を整えるのが間に合わない。 すると、玉は彼の頭上でぴたりと落下をやめた。 真っ直ぐに立ち上がったところで再び落下を開始し、彼はそれを全て受け止める。 何事もなかったかのようにジャグリングを再開し、残りの距離をすいすい歩いて行った。 「んだよ、演出か? ひやっとしたぜ」 反対のデッキへ無事辿り着いたピエロに、拍手が沸き起こる。 観客は皆、マーロンと同じく演出だろうと思って納得したようだ。 だが、ビアンカは彼が綱から落ちた時の、座長の蒼褪めた顔が、どうしても気になった。 演技にしては、真に迫って見えたのだ。 [*前へ][次へ#] [戻る] |