記憶喪失の少女とダーウィン家の人々 パイン材のワードローブを開け、ざっと中を見渡す。 少し考えた後、ビアンカは白いセーラー襟のついた、ミルクティ色のワンピースを選んだ。 裾を丸く切り取った、ボタンなしのボレロを羽織り、鏡台の前に腰かける。 豚毛のブラシで梳き整えた後、両側の耳の脇の髪をそれぞれ編んで後ろに回し、シナモン色のリボンで結ぶ。 ほとんど無意識のまま一連の動作をこなしたところで、ビアンカは鏡の中の自分に違和感を覚えた。 肩の上で切り揃えられた、淡い金色の髪。 夕暮れの空のような、薄紫の双眸。 十四、五歳くらいと思しき少女が、ぼんやりとこちらを見ている。 (これが、わたしの顔) そう、解っていても、なんだかまだしっくりこなかった。 慣れ親しんだ自分の顔に、違和感を覚える人間は余りいないだろう。 だが、彼女は少々事情が違っていた。 ビアンカ―――そう名づけられた少女は、生まれてから今まで、積み重ねてきたはずの記憶の一切を、失ってしまっていた。 ◇◆◇ 階段を降りて最初に挨拶してきたのは、住人の一人であるオスカーだった。 彼はビアンカの脚にすり寄り、黒い毛皮に覆われた長い尻尾をくるりと絡めて、「ニャア」とひと声鳴いた。 「おはよう、オスカー」 狭い額をひと撫でしてやり、いつもの場所から琺瑯のボウルを出して、餌と水を注ぐ。 「ふわぁ、はよ、ビアンカ」 「おはよう、マーロン」 大口を開けて欠伸をしながら、マーロンが降りてきた。 まだ眠そうな顔で、寝癖のついた夕日色の短い髪をかき回している。 スエードのベストは肩に引っかけただけ、シャツはズボンの裾からはみ出し、サスペンダーもぶら下げたままだ。 「ああ、おはよう、二人とも」 「おはよう、ジーノ」 子供たちが降りてきたのに気づくと、家主のジーノは読んでいた新聞から目を離し、畳んでテーブルの上に置いた。 『大手企業ガーランド社買収』という見出しが躍る一面の上に、外した眼鏡を乗せる。 「おはよう、朝ご飯できてるわよ」 「おはよう、サラ」 キッチンに立っていたサラは、焼き上げたばかりのベーコンエッグをフライ返しに乗せて振り返った。 テーブルの上にはすでに、厚切りのトーストにポテトサラダ、豆とトマトのスープが並んでいる。 「こらっ、マーロン、あんたはまたそういう行儀の悪いことして!」 「いてっ」 椅子の上に足を乗せ、ブーツの紐を締め上げているマーロンに、サラは鉄拳を落とした。 「ちゃんと身支度してから降りてきなさいって、いつも言ってるでしょう」 「あーハイハイ、わぁかってるよ。ったくうるさいなぁ」 十七になる息子は、母親のお小言が少々鬱陶しいようだ。 妻と息子のやり取りに、ジーノは髭の下の口角を持ち上げ、苦笑している。 「ああ、ビアンカ、ほいこれ」 レモンバターをたっぷり塗ったトーストを片手で食べながら、マーロンはもう片方の手でポケットを探り、白いレースのハンカチを取り出した。 縁に鈴蘭の刺繍を施したそれは、先週サラが縫ってくれた物で、ビアンカの数少ない持ち物の一つだった。 陶器のジャムポットから、自家製のイチジクジャムをすくっていたビアンカは、スプーンを置いてポケットを探る。 朝入れたはずのハンカチは、やはり入っていなかった。 「あれっ、入れたと思ったのに、どうして」 「部屋の前に落ちてたんだけど?」 「ほんとう? じゃあきっと、ポケットに入れ損ねたんだわ。拾ってくれてありがとう」 「お前は落とし物しすぎ」 「……ごめんなさい」 記憶がなくなってぼんやりしているせいなのか、それとも生来の癖なのか、ビアンカはよく物を落とす。 こうしてマーロンに拾ってもらうのは、ここにきてもう何度目だろう。 「ま、俺は拾うの得意だからいいけどさ」 「ふむ、成程。それでマーロンは女の子を拾ってきたというわけだね」 「そういうこと」 冗談めかす父に、マーロンも乗っかり、二人は同じトパーズの瞳を悪戯に輝かせた。 「二人はわたしのこと、落とし物だと思ってたの?」 その形容は少々不本意だ。 だが、この町に辿り着くまでの経緯を覚えていない彼女には、反駁のしようもない。 ―――最初の記憶は、明け方の路上だった。 ビアンカは、まだ寝静まった人気のない通りを、独りで歩いていた。 カツン、カツンと、革靴の踵が石畳を打つ音だけが高く響き、足を止める。 わたしは一体どこから来たのだろう。 自分が歩いて来たであろう方向を振り返ってみるけれど、見覚えのない商店街が続いているだけだった。 首を傾げ、そして、何も思い出せないことに気づいた。 名前も、住所も、ここがどこなのかも解らない。 途方に暮れた時、声をかけてくれたのがマーロンだった。 彼は、血まみれの服を着た彼女を見て驚き、怪我をしているのではないかとしきりに心配した。 そして、そうではないと解ると、何も訊かず家へ連れ帰った。 時計職人の父親ジーノも、母親のサラも、彼女を温かく迎え入れてくれた。 いつまででもここにいていいと言って、彼女に〈ビアンカ〉という名を与え、部屋を用意し、学校へ行けるよう取り計らってもくれた。 それからもう、三ヶ月が経つ。 ビアンカの記憶は、一向に回復する兆しを見せない。 保護された時身に着けていた、銀細工の薔薇の首飾りが、何かの手がかりにならないかと調べてはみたが、結局由来は解らずじまいだ。 他に手がかりになりそうなことといえば、最近になって見るようになった、怖ろしい、夢。 誰かが、目の前に横たわっている。 顔は見えないけれど、おそらくは男。 〈彼〉は血を流して倒れていた。 そして、自分の手にはナイフがあった。 (わたしは、誰かを……ころしたの?) 怖ろしい予感に、ビアンカは身を竦ませる。 考えたくなかった。 けれど、〈彼〉を殺した良心の呵責に耐えられず、記憶を全て封じてしまった―――そう考えると、辻褄は合う。 「あら、ちょっとビアンカ、大丈夫? 顔が真っ青よ」 「ん? どした?」 「具合でも悪いのかい?」 俯く彼女の顔を、三人はそれぞれ、心配そうに覗きこんだ。 「ううん、平気。今朝ちょっと、変な夢を見ただけだから」 夢の内容を、マーロンたちに話す気には、どうしてもなれなかった。 自分の正体を知りたいという気持ちはある。 だがそれを知ってしまったら、この家族との温かな時間は粉々に砕け、二度と取り戻せなくなってしまう気がした。 (でも……あの人は、一体誰だったんだろう) 自分が、殺したかも知れない人。 〈彼〉は誰で、自分の何だったのだろう? あれが現実に起こったことだというなら、どうしてあんなことになってしまったのだろう。 誰かを傷つけて、命を奪ってしまったのだとしたら、償いはしなければいけない。 それは、解っている。 けれど、もう少しだけ、ここにいたい。 記憶が戻るまでは。 予感が、確信に変わってしまうまでは。 どうか、ほんの少しだけ。 ここでの暮らしを、優しい人たちとのつながりを、ビアンカは失いたくなかった。 [次へ#] [戻る] |