双子の奇術師と薔薇の首飾り スポットライトの中に、誰かが倒れている。 胸には、刺し傷。 散らばった亜麻色の長い髪が、血溜まりに沈んでいる。 血の気を失った手が、救いを求めるように伸ばされ、少女は震えながらその手を取った。 長い指が、血まみれの華奢な指に絡む。 『……いで』 縋るような、微かな声。 『……おれを、わすれないで』 それは悲痛な懇願だった。 拒絶すれば、彼の心は粉々に砕けてしまうのではないかと思った。 それでも―――少女は首を横へ振った。 『おねがい、ゆるして……!』 悲鳴のように、高く掠れる声。 切願を振り切ってでも、彼女は忘却を選択した。 そうすることしか、できなかった。 ◇◆◇ 目を覚ました時、ビアンカは自分が泣いているのに気づいた。 夢の中の人の顔は、やはり解らないまま。 けれど、〈彼〉は自分の、大切な人だったように思う。 なのにどうして刺してしまったのだろう。 『わすれないで』と願われたのに、忘れてしまったのだろう。 息苦しい胸の痛みがあるだけで、何も、解らないままだった。 ◇◆◇ ダーウィン時計店のあるボルトスノー通りを、真っ直ぐ北へ直進すると、町の中心を流れる用水路が見えてくる。 朝、友人たちと待ち合わせるのはこの用水路に架かる小さな橋で、そこを越えると広場はもう目の前だ。 大きなバスケットを抱えたビアンカは、こっそりとサーカスのテントの裏へ回りこんだ。 ここへはもう来るなと、サウダージにもミラージュにも言われた。 けれど、どうしてももう一度、話がしたかった。 あの、道化の青年が流した涙が、頭から離れない。 忘れられたことに傷つくくらいには、彼は彼女と親しい間柄だったはずなのだ。 それなのに、「思い出してはいけない」と言う。 その真意が一体どこにあるのか、ビアンカはどうしても知りたかった。 小さなテントの並ぶ区画に立ち入った彼女は、途方に暮れた。 「どうしよう……どのテントだか解らないわ」 辺りには同じ布地を使った、同じくらいの大きさのテントがいくつも並んでおり、どれがサウダージのテントだか、さっぱり区別がつかなかった。 こんなことなら、昨日帰る前に何か目印をつけておくんだったと後悔する。 片っ端からテントを覗こうかとも思ったが、サウダージは「歌姫には関わるな」と言っていた。 うっかり歌姫と鉢合わせしては、忠告を破ることになる。 それにしても、彼はどうしてそんなことを言ったのだろう。 「解らないことだらけね……」 自分の過去も、彼らの言動も。―――ついでにテントのありかも。 独り呟き、ため息を落としたところで、見覚えのある姿が目に入った。 金髪の、十二、三歳くらいの年頃の、少年と少女。 少年は、黒いベストにスラックス、白いシャツに、細い赤のリボンタイという出で立ちだった。 襟足だけ少し伸ばした髪を、黒いリボンで一つにまとめている。 少女は、ストロベリーレッドのスカートの上に、裾にトランプのアップリケを縫いつけた前掛けを合わせた、エプロンドレスを着ていた。 肩にかかる長さの、外ハネの髪を、白いカチューシャで押さえている。 昨日舞台の上で見た、双子の奇術師だった。 二人はビアンカに気づくと、顔を見合わせ耳許で何事か囁き合った後、近づいてきた。 「こんにちは、おねえさん」 一分のずれもなく、ぴったりと声を揃えて挨拶する。 体の後ろで手を組み、腰を屈めてにっこりと笑った。 いかにも営業用の笑顔だったが、可愛らしい仕草には違いない。 「あの、こんにちは。えっと、今日はどっちがお兄さん?」 「ああ、舞台、見てくれたんだね。 今日は見ての通りさ。僕がノクターンで、こっちが妹のカンタービレ」 少年の方がそう言って、改めて自己紹介してみせる。 「え、でも昨日は、本当はカンタービレがお兄さんだって言っていなかった?」 確か、舞台では最後に、カンタービレが女装の兄で、ノクターンが男装の妹だ、と発言していた気がする。 「違う違う。あれはね、最後にノクターンがちょっと女装して出てきただけなの。 手品をやってたのは、わたしの方なのよ?」 「じゃあ、ずっと逆でした、って言ってたのはお芝居だったのね」 「そうよ。最後だけ、わたしはノクターンの、ノクターンはわたしの声を真似してたの。 わたしたちね、どんな音でも写せる魔法が使えるのよ。人でも、動物でも、汽車の音だって真似できるわ」 「ああもう、カンタービレ、駄目だよ、ネタばらししちゃ」 得意げな妹とは対照的に、兄は困った様子だった。 「おねえさん、内緒だからね?」 「うん、解った。三人だけの秘密ね」 ビアンカが小指を差し出すと、二人はまた顔を見合わせた後、今度は作り物でない笑顔で指を絡めてきた。 「ところでおねえさん、今日の公演は夜からだよ? まだ早いし、それに舞台はあっちだ。楽屋裏は覗いちゃ駄目だよ」 指切りを交わしたところで、兄のノクターンは腰へ手を当てた。 「あっ、ごめんなさい、勝手に入ってしまって。 今日はね、ステージを観に来たわけじゃないの。わたし、サウダージとミラージュを捜していて。どこにいるか知ってる?」 二人の名前を出した途端、双子は表情を硬くした。 ビー玉のような四つの青い目が、素早く交差する。 一瞬の、無言のやり取りの後、口を開いたのはノクターンだった。 「ミラージュなら自分のテントにいると思うけど、サウダージは今ちょっと出かけてるよ」 「そう……」 「二人を知ってるんだね」 「ええ。わたし、昨日二人に助けてもらったの。だから、お礼がしたいと思って」 ビアンカはバスケットに掛けていた赤いチェックの布を外した。 「わぁ、アップルパイだ!」 シナモンと焼き立てのパイの香ばしい匂いが立ち昇り、カンタービレは目を輝かせた。 「みんなで食べてもらえるようにって、一番大きな型で焼いたんだけど、足りそうかしら?」 「僕たちも食べていいの?」 「もちろん。あ、味は心配しないで。ほとんど、サラが作ってくれたから」 何かお礼を、と考えて、サラに相談すると、彼女は食べ物なら間違いがないと言って、ケーキを焼くことを提案した。 丁度、市場でリンゴを仕入れたばかりだったので、アップルパイを焼くことになったのだが、記憶のないビアンカに料理の手順が解るはずもない。 結局、彼女が手伝ったのはリンゴを鍋で煮詰めるくらいのことで、他の工程はほぼサラに任せきりだった。 「わぁ〜、いい匂い! 美味しそう! ありがとうコーネリア!」 「あっ、馬鹿!」 ノクターンは慌てて妹の口を塞いだが、すでに遅かった。 感嘆の声とともに思わず零れた、名前。 「それ……それが、わたしの本当の名前なの?」 そう、なのだろうと思った。 昨日、倒れた時、あの人も自分をそう呼んだ気がする。 「あなたたちも、わたしのことを知ってるのね?」 二人は顔を見合わせ、困ったように眉を下げた。 「カンタービレの間抜け」 「だって! ……名前まで忘れちゃってるなんて、思わなかったんだもん」 「そうだとしても、僕らが名前知ってたらおかしいだろ? 知らないふりするって決めたじゃないか」 「あ、そっか」 顔を突き合わせ、小さな声で囁き合う。 「でも、本当になんにも覚えてないんだ……かわいそう」 カンタービレは胸元のペンダントを握りしめ、憐憫に満ちた眼差しでビアンカを見た。 ノクターンも、複雑そうな表情をしている。 ビアンカは、彼の首にもペンダントがあるのに気づいた。 赤いタイの下に、薔薇を象った銀細工のペンダントヘッドがぶら下がっている。 「あなたたちがしてる、それ……!」 ビアンカは、自分が着けていたペンダントを、ブラウスの下から引っ張り出した。 そっくり同じ形だった。 [次へ#] [戻る] |